六郷神社
ろくごうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】稗田神社 武蔵国 荏原郡鎮座

   【現社名】六郷神社
   【住所】東京都大田区東六郷 3-10-18
       北緯35度32分39秒,東経139度42分47秒
   【祭神】誉陀和気命
   【例祭】6月3日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創建年代を詳になし得ない
       天喜5年(1057)源頼義、義家奥州征定の後建立という
       文治5年(1189)源頼朝奥州征定の勝利を祈願
       建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営
       天正19年(1591)11月徳川家康は社領十八石を寄進
       享保4年(1719)造営
       明治5年(1872)東京府郷社
       明治9年六郷神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「六郷八幡宮」と称していた
   【公式HP】 六郷神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】稲荷神社・氷川神社・天祖神社・三柱神社

天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と云われる。
文治五年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願した。
現在、社宝となっている雌獅子頭と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれている。


由緒

六郷神社の由緒
当社は多摩川の清流に南面する古い八幡宮で、六郷一円の総鎮守として広く崇敬されております。
御祭伸は誉陀和気命(応神天皇)で、例祭日は6月3日です。
社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の白旗をかがげて軍勢をつのり、石清水入幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。
文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定のみぎり、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦勝祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。現在、社宝となっている雌獅子頭と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。
天正19年(1591)徳川家康は、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、慶長5年(1600)には六郷大橋の竣工を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡官の巴紋と併せて葵紋を用いている所以は、ここにあります。
江戸時代には、東海道をへだてた西側の宝珠院(御幡山建長寺)が別当寺でしたが、明治維新によリ廃され、明治5年(1872)東京府郷社に列格し、明治9年よリ六郷神社と称して今日に至っております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




六郷神社の由緒

当社は多摩川の清流に南面する古い八幡宮で、六郷一円の総鎮守として広く崇敬されております。
御祭伸は誉陀和気命(応神天皇)で、例祭日は6月3日です。
社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の白旗をかがげて軍勢をつのり、石清水入幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。
文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定のみぎり、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦勝祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。現在、社宝となっている雌獅子頭と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。
天正19年(1591)徳川家康は、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、慶長5年(1600)には六郷大橋の竣工を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡官の巴紋と併せて葵紋を用いている所以は、ここにあります。
江戸時代には、東海道をへだてた西側の宝珠院(御幡山建長寺)が別当寺でしたが、明治維新によリ廃され、明治5年(1872)東京府郷社に列格し、明治9年よリ六郷神社と称して今日に至っております。
本殿扁額
吉くから本殿正面に褐げられているもので、「八幡宮」の文字は源忠特筆とありますが、いつごろの額か詳しい年代はわかりません。
御造営のあゆみ
60・3・18 六郷神社鎮座九百三十年祭記念御造営奉賛会発会式。会長小泉由雄。募金活動開始。
60・5・21 工事請負業者を選定。
60・6・18 工事契約を結ぶ。
設計・監理 鞄本建築工芸設計事務所
施工且R田組
飾金具一式 鰹ャ西美術工芸社
殿内装飾一式 椛蜥ホ装束店
銅板葺一式 許]月板金
電気工事一式 拠村電機商会
水道工事一式 叶剋R管工設備
石材工事一式 叶ホ井石材店
樹木移植工事 巨A春造園
60・9・19 仮殿(旧神楽殿)ヘの遷座祭を執行。
60・10・19 地鎮祭執行。
61・5・18 新社殿上棟式執行。古式に則リ曳綱の儀、槌打の儀、散餅散銭の儀を行う。
62・1・20 神門、神橋、手水舎の地鎮祭を執行。
62・3.9 神門上棟式執行。
62・5・29 清祓及び新殿祭執行。
62・5・30 午後七時三十分より本殿遷座祭を執行。庭燎の火を落とし遷御の列を連ね、官司、御神体を奉戴、祭員三十名、前後陣に奉仕し、献幣使及ぴ参列者多数が供奉。
本殿の神座に奉安後、厳かに祭儀を執り行い、楽を奏し浦安之舞を舞い納める。
62・6・6 神楽殿地鎮祭執行。
62・10・16 御社殿竣功奉祝祭式典執行。
62・10・17 鎮座九百三十年祭式典執行。お稚児行列。神獅子巡行。

本殿
江戸中期の神社建築として貴重な存在といわれる享保4年(1719)建立の本殿を改修し、ひときわ荘重秀麗なる流れ造となりました。
白旗の杉(昭和29年撮影)
拝殿のすぐ東側にあった白旗の杉は、樹齢1000年といわれ、御神木として崇められてきましたが、借しくも大正11年(1922)に枯れ、現在は根株をのこすのみですが、鋭意その保存に努めております。
手水舎
表参道の東側にできた切妻造の手水舎。浄水石は山口四郎氏の寄進。
六郷八幡宮の四神については、天保3年(1831)の『東都歳事記」にも記されております。このたび彩色も新たによみがえった四神像は、そめ大きさといい、彫刻美といい一、実に見事というほがはありません。
宮神輿
古来、六郷神社の神輿ぶりは勇壮をもって知られています。
一之神輿は、昭和7年に新調したもので、台幅1.21m、高さ1.96m、重量450Kg(担ぎ棒を含まない)。
二之神輿は、文久3年(1863)の古い神輿を、昭和55年に氏子青年会が修復したものです。
流鏑馬
こどもの開運、健康、出世を祈って、毎年1月7日に行われます。
「八方にらみしという特有の的を、カミシモ姿のこどもが神社役員の介添で、椿でこしらえた弓に篠竹の矢をつがえて射るので、「弓射リ」とも称します。
流鏑馬といっても馬には乗らず、多摩川流域に多くみられる「歩射」(御備射)の様式をとっており、射場は昔がら女人禁制です。
神獅子
百獣の王である郷子の威力が悪疫災禍を祓うという信仰に支えられた古い神事舞です。
舞の形式は「雌舞子隠し」で、少年三名が雌獅子、中獅子、雄獅子に扮し、花笠を冠った少女二人がササラをすり、美しい笛の旋律にしたがって勇壮に舞います。とくに雌獅子の頭ば、源頼朝が奉献したものと伝えられ、社宝となっております。
祭礼の日には、宮神輿の先導として氏子十四町会を巡行しますが、これを「道行」と称しています。
狛犬
貞享2年(1685)に奉納された狛犬で、大田区内では最も古い。

由緒書



大田区文化財

狛犬(こまいぬ)(一対)
この狛犬は、貞享2年(1685)六郷中町の有志が願主となり、二世安楽を祈って奉納したものである。
区内に現存する最も古い狛犬で、石工は三右衛門。昔は社殿前にあったが、現在は社務所前庭に置かれている。
作風は、一般の狛犬と異なり、きわめて素朴かつユーモラスで、芸術性にとんだ形態を示し、面白い。
たとえば、へこみが深い大きな目、へん平な鼻、大きな口、髪の刻みは浅く、先端を巻き、胴はずんぐりとして、尾は小さく上向きに立つなど、興味深い作品と言えよう。
昭和55年3月19日指定
大田区教育委員会

社頭掲示板



六郷神社

社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。  
神橋 文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。 現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。
天正19年(1591)徳川家康は、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、慶長5年(1600)には六郷大橋の竣功を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡宮の巴紋と併せて葵紋を用いているゆえんは、ここにあります。 
江戸時代には、東海道をへだてた西側の宝朱院(御幡山建長寺)が別当寺でしたが、明治維新により廃され、明治5年(1872)東京府郷社に列格し、明治9年より六郷神社と称して今日に至っております。

公式HP



旧六郷橋の親柱

慶長5年(1600)に徳川家康が架設した「六郷大橋」は貞享5年(1688)の洪水により流失して以来、六郷と川崎間の渡河は186年間の長きにわたり渡し船でした。 明治7年(1874)に八幡塚村の名主鈴木左内が、私財を投じて有料橋を架けけました、左内橋も4年後の明治11年(1878)の洪水により流失しました。
その後、八幡塚村議会の有志七名が川崎駅の有志六名とともに架橋を共同出願し、明治16年(1883)「旧六郷橋」が開通しました。
この木橋は明治30年(1897)に架け替えられ、京浜電気鉄道(現・京浜急行)へ売却、人と共に電車が木橋を渡りました、しかし明治42年(1910)当地を襲った大型台風による洪水により流失しました。
木橋の、流失後、東京府と神奈川県が共同で木製の仮橋を架けましたが、交通の発達と共に橋の強度を完全なものにすることが課題となり、大正9年(1920)両府県折半で鋼鉄製の新橋建設が決定しました。
大正14年(1925)鉄筋コンクリート製タイドアーチ式の先代六郷橋が開通しました。
昭和元年(1926)に旧六郷木橋の遺構である親柱は、切妻屋根を附して六郷神社境内に保存されました。建立したのは旧出雲町(旧出村)の氏子総代・金子重太郎でした。
時を経て親柱を保護する屋根に傷みが見えるため、平成26年(2014)金子重太郎の三男・金子重雄と重太郎の孫、東六郷一丁目氏子総代・金子義裕が屋根を更新、修復しました。

社頭掲示板



郷社 六郷神社

祭神 応神天皇
創建年代詳ならす、今新編武蔵風土記稿に拠れば「八幡杜、村の東側にあり、社地社領の内にあるを以て別に除地なし、当所(八幡塚)、及高畑、古川、町屋、道塚、雑色等六ヶ村の総鎮守なり」とあり、新記に「六郷領は郡の南方にして、多摩川の涯三十四村、中にも八幡塚、高畑、古川。町屋、道塚、雑色の六村古は一村にして六郷と云へり」と見え、社名の因て來る所を説明するものゝ如し、然るに当社は蓋鶴岡八幡宮の別宮にして、往昔其の六供郷として寄附せし地に建てられ、六郷といふも其六供郷の中略なるべし、倦武州式内神社考には当社を以て式内稗田神社に擬すと雖も、かの稗田神社と称するものは当社と共に四社あり(芝田町八幡社、蒲田村八幡社、鵜木村鵜森神社及当社)と云へは、何れをそれと定め難し、江戸名所圖曾に拠るに「六郷の惣鎮守にして、八幡村にあり、別当は眞冒宗にして、御幡山宝珠院建長寺と號す、相傷ふ、鎌倉右府将軍頼朝卿、安房國より大軍を率い鎌倉へ入給ふ頃、此所にて籏建、軍勢の著到を記し給ひし旧跡なりといへり、勝利の後鶴岡八幡宮を勤請し給ふとそ」とあり、一説は頼朝石橋山に敗れ上総國へ渡られし時当所に旗を立て、後鶴ケ岡八幡を此所へ勤請したりとも云ふ、小田原記に永隷12年武田信玄乱人の時六郷の行方弾正己が屋敷の近所なる八幡を要害に構へ守りし由あるは当社の事なり、徳川家康入國の頃遊獄の途次詣て給ひ、天正19年11月社領十八石の地を寄せらる、其文に曰く
「寄進八幡武藏國荏原郡六郷之内拾八石之事右令寄附詑、彌可抽武連長久精誠者也、仍如件 天正19年11月 御朱印」
又慶長5年に家康の納められしと称する願書あれど長文なれば略しつ。
社殿は本殿、拝殿を具へ、境内地2900余坪(官有地第一種)、清楚なる社域なり、

明治神社誌料



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