国道15号に面したビルの間、台地の麓に鎮座する。 和同2年に、牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として鎮祀されたことに始まる。 嵯峨源氏渡辺党の氏神として崇敬され、渡辺綱(源頼光の四天王のひとり。頼光に従い洛北や羅生門の鬼や大江の酒呑童子を退治したという説話がある。)の産土神として俗に「綱八幡」とよばれた。 |
由緒 御田八幡神社御由緒略誌 古くは稗田神社(延喜式所載)御田八幡宮、三田八幡、箕田八幡宮等称したのを慶応元年6月稗田神社と神祗官より改称され、さらに明治5年には社号を三田八幡神社と改め郷社に列格された。明治30年に三田の冠称を御田の古称に復したのである。 祭神天之児屋根命、誉田別尊(応神天皇)、武内宿禰命、創立和同2年8月 初め東国鎮護の神として牟佐志国牧岡の地に祀られ(白銀三田)後に一条天皇寛弘2年武蔵国御田郷、即ち後の麻布領窪三田の地に遷座した(三田一丁目)その後徳川氏入国に際し奇瑞があったところから、応長12年現鎮座地たる荏原郡上高輪村海岸を開拓して造営の工を起した。そして細川、井伊諸大名の奉仕によって社殿その他建物等も竣工が完うし寛文2年8月に正遷宮が行なわれた。しかるに行年も経ぬ寛文8年2月に江戸大火のため社殿炎上の厄に遇いことごとく烏有になった。しばらく仮殿は伊皿子坂薬師寺に置かれたこのとき篤信の細川綱利公は摂津四天王寺住大工藤原家継に工事を監督させて寛文12年8月に正遷宮を挙げた。爾来幾星霜諸人の崇敬するところである。先年戦災に炎上した社殿が当時の建築物であった。現社殿は氏子各位の協力によって昭和29年に復興したものである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
御田八幡神社 祭神 誉田別尊 天児屋根命 武内宿根命 創立 和銅2年8月 祭日 大祭 7月最終の金・土・日 中祭 1月及び5月15日(釜鳴り神事斉行) 沿革 和銅2年(709)牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。その後寛弘8年(1011)武蔵国三田の地に遷座され、嵯峨現時渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。江戸開幕のみぎり、僧快尊、元和5年(1619)現在地を卜して造営を開始し、寛永5年(1628)8月遷座した。別当は八幡山宝蔵寺と称し天台宗に属する。神仏分離により別当僧復飾し神主職につく(石田弾正)。明治2年9月稗田神社と称号する。同7年1月三田八幡神社と改称し、同30年4月三田冠称御田の旧名に復し、御田八幡神社と称号するに至った。昭和20年5月東京大空襲により社殿炎上。同29年に氏子各位の協力により復興された。 社頭掲示板 |
御田八幡神社 和銅2年(709)、牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)というところに、東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。 その後、寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。 江戸開幕のみぎり、僧快尊が元和5年(1619)現社地を卜して造営を開始し、寛永五年(1628)8月に遷座した。別当は八幡山宝蔵寺と称し天台宗に属する。 神仏分離により別当僧復職し神主職に就いた(石田弾正)。明治2年9月稗田神社と称号した。同7年1月に三田八幡神社と改称し、同30年4月三田の冠称を御田の旧名に復し御田八幡神社と称号するに至った。 昭和20年5月に、米軍による東京大空襲により、江戸時代のご社殿を焼失する。昭和29年に、本殿権現造、幣殿・拝殿・神楽殿・社務所を再建した。 平成21年は、神様をお祀り申し上げてより1300年の佳節を迎えた。 社頭掲示板 |
御田八幡神社 和銅2年(709)に神様をお祀りしてより、1300年を超える神社です。 江戸時代に現在の三田の地に遷座され、以来三田をはじめ芝、芝浦、高輪の氏神様として崇敬されています。 「釜鳴神事」という、全国でも数少ない特殊神事が1月と5月の15日に行われています。 初宮・七五三・厄除け・新車清祓い等をはじめ、皆様の願意に沿ったご祈祷を毎日行っております。 公式HP |
御田八幡神社 御田八幡神社 田町七丁目 祭神 譽田別尊(應神天皇)。 社記及び「武蔵風土記」には延喜式内古社であると傳へてゐる。元明天皇和銅二年牟佐志國牧岡に草創し、寛弘二年御田郷即ち後の麻布領窪三田(現在の三田小山町社有地)に遷り、慶長十二年現鎮座地を相して社殿を造營し、寛永五年に正遷宮を行った。寛文八年火災の為めに烏有に歸し、寛文十二年細川越中守現社殿を再建した。 古くは稗田神社、御田八幡、箕田八幡宮などと稱したが、慶應四年六月稗田神社となり、明治五年三田八幡神社と改稱し、郷社に列した。其後、三田の冠稱を御田に改めた。東海道に面した衡門を潜り、一條の甃石を踏み、十八級の石階を登れば、高丘の中腹に鎮座する拝殿に達する。什寶には羅生門禁制一面、縁起(延享五年五月)一冊、上高輪検地水帳(元禄十年)一冊等がある。上記羅生門の禁制は、武蔵國三田の住人渡邊綱が鬼を退治して其腕を切取り、自邸に持歸ると、其跡を追って来た鬼が腕を奪ひ還して飛去ったので、羅生門で追ひついて大格闘を演じた甲斐もなく、遂に逃げられてしまつた時の記念に持歸つたものだと言ふ事になつてゐる。これに就いては本編第二章第七節街の史蹟、綱の舊蹟の項を参照して戴きたい。 氏子區域 田町自一丁目至九丁目九ヶ町、伊皿子町、通新町、横新町、高輪西臺町、三田四國町一部、芝浦三丁目、新芝町、月見町一、二、三丁目、高M町。 芝區誌 |
郷社 三田八幡神社 祭神 応神天皇 武内宿禰 襲津彦命 倉稻魂命 社伝に和銅年間の鎮座なりといへと確かならず、近世の偽書当国風土記残篇に「荏原郡御田郷、稗田八幡、所祭応神天皇、武内宿禰、荒木田襲津彦等也、和銅2年8月始行神禮、云々 と見えたれど、稗は蒲の古体なる稗を誤れるものにて、延喜式の稗田神社を当社に充てたるものなるべし、江戸砂子云、「三田八幡は田町九丁、其外十三丁の鎮守なり、別当を眺海山無量院と云ひ、昔は窪三田に在り、今も其処に小祠をのこす云々」と見えたり、蓋し社記に云く寛永5年芝田町七丁目へ遷座せりと、土人其山に祠を建て、旧八幡又は網八幡と称すとあるに符合す、田町は初め上高輪町といひしが、いつの頃よりか芝の田町と改めしなり、江戸名所圖曾に、「三田の総鎮守にして、祭る所山城男山八幡宮と同じく、後一條帝寛仁年間草創すと云傅ふ、旧地は窪三田に在り、正保年間今の地へ移し奉る、此地後ば山林にして、前は海湾に臨む、故に風光秀美なり云々」 と見ゆる是れなり、明治5年10月18日郷社に列す。 社殿は本殿、幣殿、拝殿等を具備し、境内は301坪4合3勺(官有地第一種)にして、山に寄り海に面し、風景殊に宜し、古来祭礼には、放生会を行へりと云ふ。 明治神社誌料 |