稗田神社
ひえだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】薭田神社 武蔵国 荏原郡鎮座

   【現社名】稗田神社
   【住所】東京都大田区蒲田 3-2-10
       北緯35度33分52秒,東経139度43分21秒
   【祭神】誉田別命 天照大神 武内宿禰命 荒木田襲津彦命 春日大神
       『風土記稿』天照太神、八幡、春日の三座
       『明治神社誌料』応神天皇

   【例祭】9月中旬土曜日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日を安置
       貞観6年(864)8月14日列宮社『三代実録』
       弘安5年(1282)日蓮が三神を開眼
       安政4年(1857)造営
       元治2年(1865)造営
       明治5年10月郷社
       昭和20年4月戦災のため全焼
       同21年9月15日仮殿造営
       同29年8月15日造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡社」と称していた
   【公式HP】 稗田神社
   【社殿】本殿流造トタン葺
       拝殿・社務所・神輿庫・手水舎

   【境内社】薬祖神社・稲荷神社・三十番神社

稗田神社は蒲田神社の誤りであるとされている。
社伝によると和銅二年(709)に僧行基が天照大神・八幡・春日の三神体を祀ったことに始まり、のちに僧日蓮が村民の請いをいれて開眼したともいわれているが定かではない。明治以前は応神天皇を祀る八幡社で、隣接する栄林寺が別当寺であった。


由緒

延喜式神明帳に、武蔵国荏原郡HIE田神社と記載された、いわゆる延喜式内社である。和銅2年僧行基がこの地に足を留め、天照大神、応神天皇、春日大神三柱の御神体を刻みて納め奉ると伝えられる。
斎場としての歴史は更にさかのぼり、第11代垂仁天皇御宇神地神戸を定め給いて天神地祇を崇敬し給いし霊地とも伝えられ、この地に集落ができると共に成立した蒲田創草の古社である。HIEの字は蒲の古字と言われ、HIE田神社はむかし蒲田神社とよばれたと伝えられている。大田区指定の文化財となっている大鳥居に、蒲田井郷HIE田神社とあり、南蒲田一丁目鎮座の北野神社々標にも蒲田井府北野神社とあって、蒲田井(ホタイ)と読むと伝えられていること、又三代実録には清和天皇貞観6年(西暦864年)8月14日戊辰詔以武蔵国従五位下蒲田神列官社と記載されていること、その他の事情を考察するに、ホ-蒲-稗のあて字がつかわれ、稗田(ホタ)をヒエタと発音するようになったものと思われる。
永禄の頃、行方弾正代々六郷の地頭として本社の傍らに住し、本社を崇敬して経営につとめたので当時は壮観を極めた。天正18年、弾正直清は北条氏に味方して豊臣秀吉と戦ったが敗れ、その家も滅びてしまったので、本社の神器・宝物・記録等を散逸し、社殿は荒廃した。しかし村民氏子の微力によって修繕管理され、氏神様として村民の信仰を集めつつ今日の姿となった。
明治5年10月郷社に定められる。昭和20年4月15日戦災の為全焼する。昭和29年御社殿復興遷座祭を執行する。昭和54年御社殿復興25周年記念事業として社務所を新築した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




稗田神社

度々の火災や水害で古い記録は残っていないが、旧社格は郷社で、貞観6年(864)官社に列し、従五位を賜ったという。延喜式に「荏原郡稗田神社」とあるのが、当社であろう。社伝によれば、和銅2年(709)僧行基が、天照、八幡、春日の3神体を創り、当社に安置し、後に僧日蓮が村民の請をいれて開眼したといわれるが、明らかでない。
近来は応神天皇をまつる八幡社で、隣接の栄輪林寺が別当寺であったが、明治初年の神仏分離により独立し、近くの小祠をいくつか境内に合祀した。

社頭掲示板



稗田神社

延喜式神明帳に、武蔵国荏原郡田神社と記載された、いわゆる延喜式内社です。和銅2年(西暦709年)、僧行基がこの地に足を留め、天照大神、応神天皇、春日大神三柱の御神体を刻みて納め奉ると伝えられています。斎場としての歴史はさらにさかのぼり、第11代垂仁天皇の御宇神地神戸をお定めになって、天神地祇を崇敬し給いし霊地とも伝えられ、この地に集落ができるとともに成立した蒲田草創の古社であります。
稗の字は蒲の古字と言われ、稗田神社はむかし蒲田神社とよばれたと伝えられています。大田区指定の文化財となっている大鳥居に、蒲田井郷田神社とあり、南蒲田1丁目鎮座の北野神社社標にも蒲田井府北野神社とあって、蒲田井(ほたい)と読むと伝えられていること、また、三代実録には清和天皇貞観6年(西暦864年)8月14日戌辰詔似武藏国従五位下蒲田神社列官社と記載されていること、その他の事情などを考慮してみると、ホ-蒲-のあて字がつかわれ、田をヒエダと発音するようになったものと思われます。
 永録のころ、行方弾正代々六郷の地頭として本社の傍らに住し、本社を崇敬して経営につとめたので当時は壮観を極めました。天正18年、弾正直清は北条氏に味方して豊臣秀吉と戦いましたが敗れ、その家も荒廃してしまいました。しかし村民氏子の微力によって修繕管理され、氏神様として村民の信仰を集めつつ、今日の姿となりました。
明治5年10月 郷社に定められました。
昭和20年4月15日 戦災のため全焼しました。
昭和29年 御社殿復興遷座祭を執行。
昭和54年 御社殿復興25周年記念事業として、社務所を新築しました。
平成12年 社殿が新築されました。

公式HP



稗田神社

大田区文化財
稗田神社の石鳥居
当社は延喜式内の古社といわれている。
この鳥居は、柱背面の銘文によって、寛政12年(1800)に北蒲田村の氏子により寄進されたことがわかる。
花崗岩の明神型鳥居で、高さ310cm、柱間314cm、中央に「稗田神社」の社号を刻した石額を掲げてある。
笠木は、全体にゆるやかな反りをもって、柱とのつり合いもよく、安定した姿をみせる。
区内の鳥居では古いものの一つで、貴重な存在といえよう。
昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

社頭掲示板



稗田神社

由緒
主祭神 誉田別命
相殿 天照大神 武内宿禰命 荒木田襲津彦命 春日大神
例祭日 9月15日
抑も当社は三代実録・延喜式その他の古文書に明記せられたる由緒深き所謂延喜式内の神社にして蒲田草創の古社なり。
和銅2年(709)僧行基は天照・八幡・春日の三神体を造り本社に安置す。後年僧日蓮は池上宗仲の館に入るに及び村民の請うを容れ改めて開眼すると伝。
清和天皇貞観6年(864)官社に列し従五位下を賜り命じ5年10月郷社に定められる。
安政4年(1857)拝殿を改築、元治2年(1865)本殿を改築、昭和4年拝殿幣殿を改築、昭和9年本殿屋根葺き替え及び神楽殿を新築す。
昭和20年4月15日戦災のため灰燼に帰す。昭和21年9月15日仮本殿を再建し昭和29年8月15日本殿・幣殿・拝殿を新築す。
昭和31年8月15日
宮司 上野喜信

社頭石碑



稗田神社

延喜式神明帳に、武蔵国荏原郡稗田神社と記載された、いわゆる延喜式内社です。和銅2年(709)、僧行基がこの地に足を留め、天照大神、応神天皇、春日大神三柱の御神体を刻みて納め奉ると伝えられています、斎場としての歴史はさらにさかのぼり、第11代垂仁天皇の御宇神地神戸をお定めになって天神地祇を崇敬し給いし霊地とも伝えられ、この地に集落ができるとともに成立した蒲田創草の古社であります。

東京都神社庁



薭田神社

・由緒
延喜式内社の「薭田神社」として、当社が正史にあらわれるのは貞観6年(864年)ということになりますが、社伝によると更に歴史は古く、次のように伝わっています。
和銅2年(709年)、僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り、本社に安置しました。その後、弘安5年(1282年)に日蓮が池上宗仲の邸に入ったとき、村民の要請で、この三体は日蓮によって開眼されたといいます。
しかしながら、現存の式内社についての全国調査結果をまとめた『式内社調査報告』によると、この社伝は信憑性がないとし、『惣國風土記』に基づいて潤色されたものであろうと記されています。ただ、当社に一体の石像(春日)と二体の木造の神像が安置されてきたことは確かであり、この点は社伝の三体神と一致しています。
・社名について
薭田神社の「薭田」という字。これは「ヒエタ」と読むのでしょうか、「ヒエダ」と読むのでしょうか。
平安時代に編纂された『延喜式神名帳』には、武蔵国荏原郡に鎮座する2つの神社の内1つは「薭田神社」と書かれていますが、これは「蒲田神社」の誤りであるというのが通説です。
幕末に活躍した国学者、栗田寛は、「蒲」という字は、古体をいつのときにか「薭」と誤写し、それがそのまま後世に伝えられたものであると述べています。明治時代に出版された『神社覈録』も「ヒエタ」と読みながら「薭田擬ふらくは蒲田の誤ならん。」と注記し、更に「和名鈔・郷名部・蒲田 加万田」と述べています。
また、『延喜式神名帳』以前に編纂された歴史書『三代実録』に「貞観六年八月十四日戌辰、詔して武蔵国従五位下蒲田神を以て官社に列す」とあることや、同時期に造られた辞書『和名抄』に荏原郡蒲田郷の地名のあることなどから考えて、この説が正しいと思われます。
このような有力な説があるにも関わらず、当社は社名を薭田神社ととなえており、蒲田神社とは称していません。蒲田神社が薭田神社と称するようになったのは何故でしょうか。
『延喜式神名帳』にある旧荏原郡の薭田神社は後世になって所伝が絶え、その所在が不明確になっていました。旧荏原郡内の神社にはそれに見合う大社はありませんが、当社の社前の地が古くから「神戸」と呼ばれており、また近くには神戸橋という橋もあり、この地名はのちに八幡社が勧請されてからの地名とは思われないので、当社が薭田神社であろうと考えた別当榮林寺の僧が、神祇管領の吉田家に当社を薭田神社とする旨の申請をし、その許可を得ました。
『新編武蔵風土記稿』は薭田神社についてこのように述べ、社号成立の経緯を明らかにしています。

公式HP2



稗田神社

式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社である、平安時代(十世紀)に編纂された「延喜式」の神明帳に記載され、また「三代実録」に貞観6年(864)「武蔵国従五位下蒲田神を以て並びに官社に列す」とあるのが、この神社であろうといわれる、
社伝によれば、和銅2年(709)僧行基が天照、八幡、春日の三神体を刻んで安置し鎌倉時代(十三世紀後半)に日蓮が村民の請いをいれて開眼したと伝えられる。江戸時代(十七~十九世紀後半)には隣接の栄林寺が別当であったが、明治初年(十九世紀後半)の神仏分離により独立し、旧社格は郷社に定められた。
昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

社頭掲示板



稗田神社の石鳥居

大田区文化財
稗田神社の石鳥居
花崗岩製、明神型鳥居、高さ310cm、柱問314cm、
笠木は、全体にゆるやかな反りをもって、柱とのつりあいもよく、安定した姿を見せる、柱背面の銘文から、寛政12年(1800)、北蒲田村の氏子により寄進されたことがわかる、区内の鳥居ては古いものの一つであり、貴重である、
また一方の銘文には「蒲田井郷稗田神社」と刻まれる、蒲田井は「ほたい」と読むといい、稗田神社は蒲田神社と呼はれたと伝えられる蒲の古字といわれる稗の字か当てられたことから、「ひえた」の発音に変化したと考えられる、
昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

社頭掲示板



稗田神社

稗田は比恵多と訓べし、(稗田疑ふらくは蒲田の誤ならんか)和名鈔、(郷名部)、蒲田、(加万太)○祭神詳ならず○蒲田村に在す、又云、江戸三田小山稗田八幡宮、○惚國風土記七十七残欠云、蒲田郷、云々、稗田神社、圭田六十二束、所祭園韓神、少彦名命也、依雄略天皇11年之勅、而始行神禮、有神家巫戸祈病災莫不験、祈田毛莫不實、』又同一本云、御田郷、(或箕多)云々、稗田八幡、圭佃五十八束三字田、所祭慮神天皇也、武内宿禰、葛木襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日、始行神禮、有神戸巫戸等、
連胤按るに、当社は蒲田神社にして、三田なる稗田八幡宮は、別社なるべきか、考ふべし、
官社
三代実録、貞観6年8月14日戊辰、詔以武蔵國從五位下蒲田神列官社

社頭掲示板



郷社 稗田神社

祭神 応神天皇
創立年代詳ならす、然れども武藏國式内四十四座の中、小社に荏原郡稗田神社あり、清和天皇貞観6年8月14日詔して武藏國從五位下蒲田神を以て官社に列す。神祇志料に、蒲田の神社(按本書、蒲を稗に作る、恐くは誤れり今三代実録、倭名鈔に拠て之を訂す)今蒲田村の東大森村にあり(神名帳考証上代、四神地名録、武蔵国図」)とあり、神社覈録には「稗田神社、祭神詳ならず、蒲田村に在す」と見ゆ、又「惣國風土記七十七残欠云、蒲田郷、云々、稗田神社、圭田六十二束、所祭園韓神、少彦名命也、依雄略天皇11年之勅、而始行神礼、有神家巫戸、祈病災莫不験、祈田毛莫不實、」又同一本に云、「稗田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、武内宿禰、葛木襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日、始行神礼、有神戸巫戸等」とあり、其の古社なることを知るべし、然るに社記に拠れば、延喜式神名帳なる稗田神社は何時の頃にか所在明かならざりしに、当社の前の地を神戸と称へ、又神戸橋などいへる橋もあり、式内社は正しく当社なるべしとて吉田家の判を請ひ、遂に稗田の號を許されし由なり、新編武蔵風土記稿にも前の六郷神社の條に云へるが如く、式内稗田神社と称する者四社ありて其何れとも定め難しとなせり、尚同書に「当社の祭神は天照大神、八幡、春日の三座なり、何れも木像にして其の彫刻甚だ古質なり、太神は鉾を逆に杖つきて巌の上に立ち給ふ容也、八幡は左の御手に弓を執り給ひ右の御手にて御佩刀の柄に手をかけ給へる立像なり、二躯共に長二尺七八寸、試に佛師をして観せしめしに刀痕甚あらし、とかくに鎌倉將軍家の時代より以上のものならんと云り云々」、とあり、其古社たることを知るべし、又本社は式内の社にあらすとの説あれども未だ遽に決し難し、境内地860余坪(官有地第一種)あり、本殿、拝殿を具備せり、土俗蒲田八幡と呼ぷ。

明治神社誌料



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