中川神社
なかがわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】中川神社 美濃国 惠奈郡鎮座

   【現社名】中川神社
   【住所】岐阜県中津川市北野町 816-1
       北緯35度30分24秒,東経137度30分19秒
   【祭神】菊理媛命 伊邪册命 木花咲耶媛命
       木曽川の女神を祀ったのが起源であり、この女神が後に3柱の女神(菊理媛命・伊邪册命・木花咲耶媛命)に変更されたという説もある。

   【例祭】4月第2日曜日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       天正2年武田勝頼の兵火で焼失
       延宝2年(1674)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「白山社」と称していた
   【社殿】本殿三間社流造檜皮葺
       拝殿・手水社

   【境内社】

江戸期には中川宿に八幡祠、白山権現祠、神明祠の3社ありいずれが中川神社か不詳であったが、その後白山社が式内中川神社とされた。


中川神社

この中川神社は、延長5年(927)に全国の神社の中で官社と定められた2861社を登載した延喜式神名帳に「恵奈郡中川神社」として名前の出ております大変に古い式内社です。
中川とは中津川のことであり、天慶3年(940)の美濃国神名帳には「従5位上中津川明神」と記されております。
古来「白山社」薄野森ともいわれ御祭神は加賀白山社の神様 菊理媛命、伊邪那美命と富士山の神様木花咲耶姫命であります。また美濃古跡考によりますと、この地は伊邪那岐命がお生まれになった神の地として昔から崇敬され、木曽川の守り神として女神が祭られたと言い伝えられております。
天正2年(1574)に甲斐の武田勝頼が美濃表へ出陣の際、兵火にかかって境内の社殿、立木は焼失しましたが、その後延宝5年(1677)に氏子等の手によって再建され今日に到っております。例祭は毎年4月13日に行われ、中津川市民の産土の神として厚い信仰を集めております。

社頭掲示板



平成の大改修記念

中川神社は千有余年の歴史と式内社の格式を待つ神社でありながら、拝殿も直会殿も無く、日常の参拝者は勿諭祭りの度毎に大変な苦労をして参りました。氏子の間から念願の拝殿直会殿建設の声が起こり、生成8年9月建設委員会が発足し、「平成の大改修」の事業が進められました。
折りから日本経済は未曾有の不況に襲われる中にあって建設委員会の献身的な努力と氏子崇敬者の皆様の温かいご支援によりて、荘厳なる拝殿、立派な直会殿が完成し、同時に裏参道や駐車場の設置と、境内の整備を終えることが出きました。
ここに氏子崇敬者の皆様のご協力に深く感謝し、記念碑を建立し、その厚き志を後世に伝えるものであります。
平成14年4月吉日
中川神社官司 梅村高司
建設委員長  可児豊司

社頭石碑



御神木について

この境内地に古きよりそびえ立つ異形の高野槇は、この度発見された中川神社の御神木である。胴回りが約2.75mあり樹齢は約二百数十年以上と推定されるこの御神木は、日本国中数ある高野槇の中にありても一際大きな木であり、また中程より三つとなる姿も大変めずらしい。
 この中川神社は古来、国の年中行事の典拠として尊重された法典である延喜式(927年奏上)のうち、当時の主要神社名を記した神名帳に記載 がある、歴史あり格式の高い神社である。御祭神は
 ・菊理媛命(くくりひめのみこと)
 ・伊邪那美命(いざなみのみこと)
 ・木花咲耶媛命(このはなさくやひめのみこと)
の女性神三柱の大神さまであり、この高野槇はまさにその御姿を現された 象徴的なありがたい御神木であると言えます。
 奇しくもこの度、皇室の秋篠宮家におかれましては皇孫殿下であらせられます悠仁(ひさひと)親王様ご誕生の慶事に合わせこの御神木が見つか り、またそのお印が日本国固有の木である高野槇と決まりましたこともご縁浅はかならぬ所である。
 この中川神社御神木のご霊威により、皇室のご繁栄をご参拝の皆様のご多幸を心よりご祈念申し上げる次第であります。

社頭掲示板



中川神社

創建不詳であるが、延喜式神名帳に「恵奈郡三座乃内中川神社」と記される式内社である。境内は形の良い小山をなし樹齢数百年を経た樫や杉・高野槇が繁茂し極めて尊厳で、古くは景勝地としても名高かった。現在の本殿は武田勝頼の兵火に罹った後の延宝5年再建と伝う。
平成11年、氏子達の奉賛により拝殿と直会殿を建立する。また境内奥地に高野槇の御神木も有り。
文化財等 前田青邨画「源義経像」絵馬

岐阜県神社庁



美濃国INDEXへ        TOPページへ


学校DATA