八幡神社
はちまんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】坂本神社 美濃国 惠奈郡鎮座

   【現社名】八幡神社
   【住所】岐阜県中津川市千旦林642番地
       北緯35度28分44秒,東経137度28分15秒
   【祭神】品陀別命 帶中日子命
       元々は神坂峠の道中安全を祈願し、大山祗大神を祀ったのが最初という。

   【例祭】10月1日近い日曜日 例祭
   【社格】
   【由緒】大宝2年(702)社殿建立
       観応3年(1352)木彫り神像十三体(文化財指定)製作奉納
       天正2年(1574)武田勝頼軍の東濃侵攻の際戦火
       天保3年(1832)9月24四日造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【公式HP】 坂本神社八幡宮
   【参考HP】 龍馬神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・幣殿

   【境内社】白山・熊野・諏訪・神明・御鍬神社・嚴島神社
   【別当】維新前は大智山願成寺の修験が奉仕

坂本神社八幡宮と通称されている。
参道に踏み切りがある。集落の北、山の南麓に鎮座する。叢林はこんもりとしている。
元々は八幡神社の地に坂本神社が鎮座していたのが鎌倉時代から南北朝時代の頃に焼失。移転遷座したのが諏訪神社、元の坂本神社の地に再建されたのが八幡神社という。


公式HP

御 祭 神
誉田別命(ホンダワケノミコト)(八幡大神・応神天皇)
全国八幡神社の総本宮・宇佐神宮の縁起によれば、欽明天皇32(西暦571)年、現在の本宮のある地に神霊が現れ「我は誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と告げたといわれ、八幡大神は応神天皇と同一視されております。
又、源義家が八幡太郎を称したように源氏の氏神とされ、古来より武家の厚い信仰を集めております。
大山祗大神(オオヤマツミノオオカミ)(正鹿山津見大神)
木乃花咲耶媛の父親神にあたり、神道では山の神の総元締め的な存在と考えられております。
帯中日子命(タラシナカツヒコノミコト)(仲哀天皇)
倭建命の皇子にして誉田別命(応神天皇)の父親。
皇后は息長帯比賣命(神功皇后)

延喜式内社 坂本神社八幡宮 由緒
当社坂本神社八幡宮は社伝によりますと、古代岐蘇山道(中山道)最大の難所と言われた恵那神坂峠を越える旅人が、この地にて神坂の山霊(大山祗大神)を遥拝祭祀し、道中の安全無事を御祈念申し上げたことに始まり、大宝2年(西暦702年)御社殿を建立、坂本神社として創建されたと伝えられ、坂本の名称は之に由来すると云われております。
当社は、延長5年(西暦927年)醍醐天皇の勅命により撰進された延喜式神名帳に、”美濃國恵那郡3座 坂本神社・恵那神社・中川神社“と記載されており、古き由緒を持つお宮で在ることがわかっております。
八幡宮の呼称については、源頼朝が鎌倉に幕府を築いたおり日本各地で武士の横行があり、これを避けるため、星野久左ェ衛門尉光重が九州豊前宇佐八幡宮より、源氏の氏神であった八幡宮を勧進・合祀したと伝えられており、之によって当社の名称は坂本神社八幡宮となりました。
その後、天正2年(西暦1574年)武田勝頼軍の東濃侵攻の際戦火を蒙り、御本殿一宇を残し全て灰燼に帰し、社宝・神領は没収され、社頭荒廃その極みに達するも、氏子千旦林村の村民の努力により復興し、今日に至っております。
 
鎮座地
岐阜県中津川市千旦林642番地
東経 137度28分27秒
北緯  35度28分33秒
標高 340メートル
樹木:ヒトツバタゴ(通称ナンジャモンジャ)
中津川市指定文化財
参集殿裏にあるヒトツバタゴは通称ナンジャモンジャの木と呼ばれている。ナンジャモンジャとは、得体の知れない木・誰も知らぬ木という意味であるらしい。
当神社の木は非常に大きく、大変珍しいと言われている。
 
例祭日
10月第1日曜日
社格
(旧)式内社
延長5(西暦927)年の延喜式神名帳に記載され、朝廷より幣帛料を賜った神社のことをこう称します。
(新)銀幣社
現在例大祭に当たり、岐阜県神社庁より銀幣が奉幣される神社をいいます。
建立年月日
当社の創建は大宝2(西暦602)年と伝えられており、1300年の長き歴史を持つ由緒ある神社であります。
又、この大宝2年と言う年は、大宝律令が諸国に頒布された年であり、國造(くにのみやつこ)の氏が定められた年でもあります。

公式HP




坂本神社八幡宮

式内坂本神社八幡宮由緒
鎮座地 中津川市千旦林642番地
御祭神 誉田別命(応神天皇)
    大山祇神(正鹿山津見神)
御由緒
千駄林(千旦林)の地は、神坂峠を眼前に望む山麓に位し岐蘇山道(中山道)要衝の地にして、人馬最も多く配備せる駅存在し繁盛す。往古より峠を越える旅人は恵那神坂の山霊を崇拝祭祀を行い道中無事を祈願せし地なりとす。坂本神社の名号之に由来す。
創建は大宝2年(702)にして、延長5年(927)醍醐天皇の勅命により撰進せる延喜式に美濃国恵那郡三座中筆頭に坂本神社とあるは即ち当社なり。
祭神大山祇神は、天照大神の胞衣を恵那山に納められしと伝う、胞山(恵那山)の名称亦之に起源す。
八幡宮の呼称は天平9年(737)続日本紀に初見され、千駄林の住人星野久左衛門尉光重により九州豊前宇佐八幡宮より勧請奉祀す。
平安以降、仏教の国教化に伴い本地垂迹思想(八幡宮の本姿は阿弥陀如来)により神仏混淆盛んとなり、仏僧が神事を支配して明治に至る。
即ち観応3年(1352)檀那宗信、僧保? 木彫り神像十三体(文化財指定)製作奉納せる中に僧形二体を認むる外、別当に大智山願成寺之に当たり寛永享保の年間大龍院権大僧都快春なる住職社僧として神社を支配す。
明治元年神仏分離令発布され明治六年廃寺となる。梵鐘は宮寺たりし宿松山大林寺に納む。その銘寛文6年(1666)丙午10月坂本神社八幡宮とあり。
天正2年(1574)四月武田勝頼軍の東濃進攻の際戦火に因り本殿一宇を残し全て灰燼に帰し、社宝神領没収され社頭荒廃その極に達せり。その後徳川期に入り千旦林村領主山村甚兵衛候等の図らいに依り、村民相協力し改修復原、社威一段と昂揚今日に至る。
御神徳
人々の願いを満ち足らしめ給い五穀豊穣、商売繁盛 災難除け 病気平癒 縁結び 学業成就を始め往古より交通安全守護に極めて霊験あらたかなり。

社頭石碑



八幡神社

大宝2年霊夢により創立すると云ふ。延喜式に掲げる百駅伝の内坂本駅は現在の坂本村千旦林(旧名千駄返。信州阿智駅と往来輸送頻繁であった為此の名出づ)及中津川町字駒場の地であって神名帳所載の恵奈郡三社の一坂本神社は蓋しこの駅頭に祭祀されたもので、此の八幡神社にあたる。恰も恵那神社、中川神社と鼎足の形状にあたる。大日本史に曰く「坂本神社按ずるに千旦林村坂本の地に有り。村中八幡社有り。蓋し此」と述べ、日本地理志料、美濃明細記、御坂越記、皆之と同じである。社内に木像十三体がある内九体は衣冠束帯。二体は烏帽子狩衣、僧形二体で、底部に「観応3年6月2日作像保譚」「観応3年9月檀那宗信」とある。御坂越記に曰く「社稜南向街道迄大門通りにて鳥居あり。東の方神主屋舗、西の方は大智山願成寺(別当天台宗)屋舗あり。普門院、大善院、五日坊、下の坊、仙福院、妙音庵、長善庵、政竹、右八カ所は今田地の字名にあり。」云々又曰く「遠山氏繁昌の節迄は山城國男山の宮殿に模して結構善美荘厳なりしが、天正2年阿寺落城の時、坊社焦土となり、神領没収せられて神主社僧逃走し、殿舎破壊して今は本社一宇残れり。神名帳美濃國恵奈郡三座の内坂本神社は此の社なり」文化財 木像狛犬一対

岐阜県神社庁



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