式内社中山神社の論社とされている。 この地に式内中山神社が鎮座していたが、米田城城主肥田玄蕃の命で中山神社を移転再建したさい、信濃国諏訪大社を祀り、諏訪神社に改称したという。現在の中山神社は元の位置に再建した神社と推測される。 |
中山神社 当社は信友支村中山に有り。其の支村の田畑の字を大神洞と云ふ。旧名古屋藩社寺古帳に曰く、信友村天神一社○社内(東西九間南北十間)前反除、文化3年6月呈記曰く、加茂郡信友村天満神社又説米田の庄神社五天四面但し柿葺境内(東西九間南北十間)岩井本神社名帳中神社中山村に有り。市置武彦式社稿曰く、中山神社加茂郡米田庄信友村に座して中山天神と称す云々。一人の鍛冶有り。名に信友と云ふ。中山の金神に誓ひ太刀を打事のくわしき業をなせりより村名にせり。里の老人の口碑有り。祭神金山彦命にやあらむ。当社衰頽して神主なし。今社を守る人を置くのみ。按ずるに鍛冶の住めるより村名せりと云ふ。近き辺りの村里皆鍛冶の名の如き村多し。為岡、則光、兼行、と云ふ村有るなり。当社在中石拘あり。其の銘に上列加毛郡美濃國中山と有り。当社境内実地四百四十八坪。 岐阜県神社庁 |
中山神社由緒 中山神社は金山彦命を祭り、勧請年紀は未詳。 加茂郡神社調書には加茂郡米田荘信友村に属して中山天神と云われ、この近辺を中山村と称していた。又近辺の地名には金山彦命に因み鍛冶の■と思われる信友、為岡、則光、兼行等多くが現存する。 又、中山神社は下飯田村水上の地に鎮座されていたが永緑年間の火災により、幅島城主肥田玄蕃の一族肥田長壽丸が山元村(現在の諏訪神社の地)に再建して信州より諏訪明神を迎えたのち■■に配祀されたと伝えられている。 平成15年より始められた信友天神■開発事業に伴い現在の地の北100mの山麓から平成15年9月に移転された。 社頭石碑 |