谷間の小社。集落より離れている。手入れ悪く朽ちかけている。 永緑12年(1569)再建以前は、現在地より丑寅(北東)の水上と呼ぶところにあつたといわれるが、その場所は不明である。 |
諏訪神社 諏訪明神は往古、下飯田村内水上といふところに僅かな祠としてあつたが、丁度その頃、西脇村に郷士毛利勘右衛門といふ大悪の地頭がゐて、諸事恣に取扱ひ、我が意に叶はざる庄屋百姓等は、頭に油をかけ松明で焼く等の残酷無道の責をもつて死に至らせ、庶民の難澁は言語に絶するものがあつた。そこで下飯田・上飯田・福島・山本・信友・今・西脇・則光・爲岡・東栃井等十ヶ村の住民が挙つて諏訪神社へ、毛利勘右衛門を亡ぼし給はば右十ヶ村の惣氏神として奉齋する旨専心祈願をしたところ、その御神力にて勘右衛門は忽ち公儀の刑罰を受け、同人が使用してゐた剣は神社に奉納されることになつた。米田庄十ヶ村の惣氏神とされた所以はここにあつて、神社も水上より十ヶ村の惣入會野に遷され、下飯田村の山田右近右衛門家が神主として奉齋することになつた。 然し、永緑年間火災によつて旧記宝物類すべて焼失し、その頃までの年暦も不明となつてしまつたが、僅かに勘右衛門誅伐の折奉納した剣のみ焼身として残つた。その後隣村幅島村加茂山城主肥田玄蕃の弟で今村に住む肥田長壽丸が(永緑12年己巳(1569)9月24日に再建したとの棟札が神主山田家に残つてゐる。肥田玄蕃は可児郡兼山村中井戸之庄鳥加城城主森武藏守長一に攻められて、天正10年(1582)秋に落城した。 式内社調査報告 |
諏訪神社 勧請年不詳。渡邊信喜式内神社須拝表曰く中山神社加茂郡米田荘市岡猛彦式内老稿旧中山神社或説今米田十ヶ村の惣社下飯田村にあり。山本村に近し。諏訪明神と云(古語桾また下飯田村にあり)明治8年呈記曰く加茂郡米田郷中山鎮座諏訪神社の儀は延喜式神明帳当國内神名帳記載中山神社の趣右は永禄年炎上旧記宝物等焼失すと云伝。永禄12年9月肥田長寿丸(隣村福島城主肥田玄蕃一族なり)再建の棟札之有り。先年吉田家司玉田主計と云ふ者当国式内社改の時自筆の記と云ふ旧名古屋社寺帳曰く加茂郡下飯田村字中山諏訪大明神一社社人山田信濃扣境内山林の内東西八十間南北六十間祭礼場長八十間巾十二間上飯田村下飯田村信友村栃井村西脇村今村山本村為岡村則光村右十ヶ村の氏子あり。明治6年2月米田郷十三ヶ村の郷社に定められ、同12月第十八大区五小区を兼郷社に定められ候同7年四五小区兼被廃候。 岐阜県神社庁 |