多爲神社
たいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】多爲神社 美濃国 高島郡鎮座

   【現社名】多爲神社
   【住所】岐阜県関市西田原 1615
       北緯35度27分13秒,東経136度56分41秒
   【祭神】大須禰比売命
       女神らしいが詳細は不明。昭和の『神社明細帳』に初めて見え、
       明治時代の『神社明細帳』には祭神不詳とあり、大正10年の『美濃国加茂郡誌』によれば
       神体として木像が2体あるが、古くは3体あって神座も3座あるという。

   【例祭】4月15日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】寛文5年(1665)神域守護の禁札
       天保10年(1839)頃社殿腐朽
       明治4年式内神社と定められた
       明治6年郷社
       明治40年3月27日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】古来より余り異称はなかつた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・幣殿

   【境内社】

古来より余り異称はなかつた。
山麓。本殿は昇ったところにある。
鎭座地が僅かな戸数のため、大杉村等の助けを借りて細々と維持してきたと思われる。


多為神社

延喜年間創立。往古より西田原北手井組十有戸にて修繕維持せり。天保10年頃社殿腐朽棟札紛失祭祀中絶せしことあり。明治5年頃迄、隣村大杉村信徒祭事を補佐し、寛文5年代官根尾三右ェ門松井取右ェ門山林草木伐採禁止の制札を立て、管理す。明治4年内務省達を以て式内神社と定めらる。笠松県庁より菱川賢二出張を命ぜられ、年々祭祀を行ひたり。明治6年1月4日、隣八ヶ村(西田原村、小迫間村・稲口村・迫間村・大杉村・東田原村・市橋村・深萱村)の郷社と定められたり。

岐阜県神社庁



美濃國賀茂郡式内多為神社 由緒

(由緒)
創立年代は不詳、延喜年間(901〜922)かともするも、この延喜はおそらく式内社に撰定せられたのが延喜年間であることからの推定であり、それよりも古くから鎮座したことも考えられる。
美濃国神明帳には従五位下多井明神とあり、『美濃明細記』には多井宮と称している。また、明細帳には、明治4年内務省より式内神社と定められ、さらに、6年には、西田原村・小迫間村、稲口村、迫間村・大杉村・東田原村・市橋村・深萱村の八ヶ村の郷社となると記されでいる、また、明治40年3月27日には、神饌幣帛料共進神社に指定されている、旧郷社・式内社。
【祭神】大須禰比売命(オオスネヒメノミコト)
昭和期の明細帳には大須禰比売命を祭神とするが、明治期それには不詳とある、美邊国加茂郡誌には、「神体は木像二柱にして何れも御長七寸許、いと古び給いて男女の別も詳ならず此神体もとは三柱ありしを、何時しか失せさりし、由にても神座三つ設けあり」とも記している。 

社頭掲示板



多爲神社

多為は仮字也○祭神詳ならず○西田原に在す、今多井宮と称す、(明細記)
類社
伊勢國奄芸郡多爲神社の下見合すべし
神位
本國神名帳、從五位下多井明神

神社覈録



郷社 多爲神社

祭神 大須彌比売命
創建年代詳ならすと雖も、延喜の制式内小社に列す、即ち神名帳考証に。「多爲神社、稻霊豊宇氣姫命」と見え、神社覈録に「祭神詳ならす、西田原に在す、今多井宮と称す、本國神名帳、從五位下多井明神」と見え、新撰美濃志に、西田原村は小廻間の東にあり、読草庵集に飛鳥井刑部卿(雅朝朝臣)美濃國西田原といふ所を守護(土岐存孝)にさの時雨を祈るに、未だ会て其験あらざるなきを以て、居村は勿論、遠くは四隣の国々より踵を接して来る、明治5年第十大区二小区の郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、神門、石灯篭等を具備し、境内坪数3366坪(官有地第一種)を有し、本町の北隅に在りて、全山の老松は振古の歴史を語るものの如し、宝物は神鏡一面(宝永4年霜月美濃太田郷林氏寄付)其他数種を藏す、

明治神社誌料



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