初めの鎭座地は神永(カンナガ)ヶ洞天皇山の頂にあつたといわれ、現在地より北約700mのところである。 阿夫志奈神社の社号は尾張の式内社宇夫須奈神社と同様「宇夫須奈」と称したとも思われる。 |
阿夫志奈神社 嵯峨天皇の御代、弘仁9年戊戌(818)春、天下に大疫が流行したので勅命により日本の大小神社は疫神を退ける祈祷をなした。川邊郷民も勅命に從ひ、同年9月26日神永ヶ洞天皇山の頂に社頭を建立し、三祭神の神璽を齋き鎭め祈誓をした。これが阿夫志奈神の創建で、神托により郷民が平穏となつたので郷の惣鎭守として崇敬した。その後神托によつて貞観元年(860)11月13日ハ厚朴(ホホ)の森の地に遷し、寛平9年(897)9月14日には、御手洗水の霊験によつて芳賀の地に遷座した。 永承年中(11世紀中煩)には、神祇官より幣帛を捧げられる程の崇敬をうけ、更に建仁2年(1202)4月14日には稻葉山城にゐた二階堂山城守藤原行政の崇敬をもうけ、下屋敷を賜はると共に本殿拝殿とも改築された。永正6年(1509)正月14日には、大中臣朝臣貴安によつて再建されたらしく、その旨拝殿の古額に記されてをり、更に永禄2年(1559)3月14日には加茂山城主玄蕃守義直から、祈願成就の御禮にと上熨斗上紙一帖・武具一具・太刀一ふり・垂鞍一領の奉納をうけた。 。 明細帳 |
阿夫志奈神社 于時人皇52代嵯峨天皇御宇、弘仁9年春天下に大疫流行、万民臥悩する者莫なり。然る所勅命により日本の大小の神社に於いて疫病神斎のご祈祷を為し給ひ、右祭神伊邪那岐命伊邪那美命素盞鳴尊の神璽を斎ひ鎮め、疫神を退け、天下安堵の思ひ為す。茲に川辺郷一同随心し、同年9月26日神永洞天皇山の頂に社頭建立し、専ら祈誓奉る。郷民穏やかなり。依って右郷惣鎮守阿夫志奈と敬し奉る。而して神託により、貞観元年11月13日厚朴の森の地に遷し奉る。この時新嘗会の儀式を為す。而して39年の間此の地に鎮座既にして、寛平9年9月14日御手洗水の霊験に依り芳賀の地に遷し、後人皇60代醍醐天皇勅命により、延喜年中神祇伯従五位上卜部日良麿日本■祇管領を命ぜられ式内神社と定め賜ふ。当国三十九座の内阿夫志奈神社是なり。故に神祇最上斎場所垂跡を賜ふ。国司階堂山城守藤原行政殿極めて信仰厚く、祈る所成就布かして当国稲葉山在城の時、即ち建仁2年4月14日下屋敷を賜ふ。本社拝殿共改造せられたるもの今尚現在たり。 岐阜県神社庁 |