県主神社
あがたぬしじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】県主神社 美濃国 賀茂郡鎮座

   【現社名】県主神社
   【住所】岐阜県美濃加茂市西町7丁目62番の1
       北緯35度27分9秒、東経137度0分1秒
   【祭神】彦坐王
   【例祭】4月第1日曜日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創始年代鎭座の次第は不明
       貞観中中納言在原行卒大社に修造
       延久年中源義綱が修造
       明治6年郷社
       明治40年3月27日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】鴨県主
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所・舞殿・拝殿

   【境内社】

この地は大和朝廷の直轄地であり、統轄した鴨県主が祖神を祀ったものである。
県主神社の社名からも、鴨県主の祖彦坐王を祭神とするところからも、県主神社は鴨県(律令制下では賀茂郡)の中心的な神社として、創始以祭神を正しく伝えて来たといえる。


金幣社県主神社の由来

県主とは大化改新以前の県と称する地方組織の長であるが、皇室直轄地の長とも国造の下に属する組織の長ともいわれる。県主神社は、この県主の祖神を奉祀する神社である。
岐阜県美濃加茂市太田町。旧郷社。彦坐王命を記る。延喜の制小社に列する。彦坐王命は、第九代開化天皇の皇子で彦坐命・彦今簀命・日子坐王とも表記されていて新撰姓氏録に、「鴨県主、治田連同祖、彦坐命の後なり」とみえ、神社覈録に「祭神鴨県主祖歟、太田駅に在す、賀茂県主明社と称す」とあるので、当社は鴨県主が祖神を紀つたものと思われる。社伝によると、鎮守府将軍源頼義は勅命により安倍貞任征伐の折、当社に戦勝を祈りその報賽として社殿を再建したと伝え、美濃国神名帳(延暦寺本)に「従三位県主大神」とみえる。
例祭四月第一日曜日(神社辞典より)

社頭掲示板



縣主神社

創祀不詳なれども、延喜式従三位とある。明暦3年拝殿再興の棟札あり。旧号縣主大明神又は加茂縣主大明神又は縣主神社と云ふ。宝暦8年8月当社上葺棟札、安永9年11月上葺、寛政5年6月その他棟札多数。新撰姓氏録左京皇別の條に鴨縣主は冶田連と同祖なり。彦座命之後也。又同本摂津神皇別の條に鴨君彦座命後也などとありて、当郡に命の子孫繁昌し、因って其の祖神を祀れるなり。伝に云ふ。清和天皇御宇当國司中納言在源行本霊地なるにより貞観中大社修造あり、諸人信仰浅からず神事を怠りなく年中行事月並みの勅撰詞進あり。その後星霜推移し、後冷泉天皇の御宇陸奥の阿部頼時父子乱を起こすや、源頼義義家勅令によりて之を討つ。頼義の二男加茂次郎義綱は京都の守護なりしが賊勢盛にして官軍苦戦なりと聞き、加勢のため東山道を下る途次この地に止宿し、社前通察して奥賊平定社殿造営を祈願す。乱平げて後延久年中美濃國司となるや、山田圖斉時貞に説して京都の加茂神社に準じ之を上下両社に分ちて修造す。餘公村に属するに加茂須川の川上なれぱ、加茂とし、川下なる太田町に属するを下加茂となり、社頭田七反一畝十二歩を寄付すとこれ蜂屋村加茂神社旧社人栗山加森の旧記に見ゆるなり。足利時代には当國大桑城主土岐美濃守より祭典執行あり。以下略

岐阜県神社庁



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