加佐美神社
かさみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】加佐美神社 美濃国 各務郡鎮座

   【現社名】加佐美神社
   【住所】岐阜県各務原市蘇原古市場5丁目1番地
       北緯35度25分20秒,東経136度51分56秒
   【祭神】蘇我倉山田石川麻呂 加佐美神 応神天皇
   【例祭】10月15日近い日曜日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観6年(864)8月15日従五位上『三代実録』
       文禄3年(1593)八幡宮に25石の寄進
       正徳5年(1715)造営

   【関係氏族】各務氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡大神社」と称していた
   【社殿】本殿八幡造
       渡殿・祭文殿・社務所・幣殿・舞殿・神輿庫

   【境内社】神明神社・加佐美稲荷神社・御鍬神社・秋葉神社

蘇我石川麿公は往古曽原の県主であり、崩御後神霊を祭祀という。「蘇原」の地名は、蘇我氏の領有に由来するといわれている。10月第2土曜日の加佐美神社の例祭には、花御輿(はなみこし)がくりだされる。
もとは後方にある加佐美山を神体にした神社と考えられる。



由緒

元郷社 加佐美神社は昭和50年9月16日岐阜県神社長指定第76号を以て金幣社に列す。
三代実録曰清和天皇貞観6甲申年(864)8月15日美濃國従五位下加佐美大神に従五位上を贈る。(旧暦)
美濃雑事記加佐美神社は廷喜5乙丑年(905)各務郡曽原荘古市場にあり八幡宮と称す廷喜式明細帳曰美濃國各務郡七座の内、加佐美神社は廷喜8成辰年(908)式内社に列す美濃神名帳曰加佐美神社は二十二社の内、正四位下笠見明神とあり。
蘇我石川麿公は往古曽原の県主たりし時百姓を撫綏、勧励老少大懷、因而、薨去後神霊、崇敬、し祭祀奉るとあり、「蘇原」の地名は、蘇我氏の領有に由来するといわれており、この蘇原に在住この地域を治めました。後に大和朝廷の財務を握り、帰化人氏族を統治し(境内に阿弥陀堂)また今の西側駐車場に根本寺が有ったように、進んで仏教を取り入れるなど、当時の進歩的派の代表であり、大化改新後右大臣となり大化5(649)年没。
墳墓(当神社西に蘇原宮代町二丁目)の丘にあり宮塚と呼ばれています。山田寺大寺院跡礎石郡(当神社南西に蘇原寺島町)現在の山田寺地内、白鳳時代(大化5)年建立とあり、大和の山田寺に関係深いことから、石川麿公の菩提寺として石川麿公の子興志が建てたとされ、その艮に飛鳥田神を鎮守として祀ったとされています。
なお、近くに(清住町)式内社飛鳥田神社(正三位下飛鳥田大神)があり、蘇我氏との深い関係が伺えます。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




鬼瓦の由緒

拝殿は、現存する棟札によると、延享3年(今から244年前)に再建されたものと思われますが、その後、幾度か修理が行われ文政2年(今から171年前)7月、それまで萱葺きであった屋根を瓦葺に葺直した時に取り付けられた鬼瓦です。
さらに明治34年(今から90年前)9月にも、拝殿の修理が行われた記録がありますが、昭和62年に、屋根の葺き替えを行った際、屋根瓦を新調したために取り外した鬼瓦を、ここに保存したものです。
又、この鬼瓦の上部には、作者の氏名が、「文政2年卯9月岩田村丹羽久七作」と刻まれています。
平成2年3月吉日 記

社頭掲示板



木造狛犬

市指定重要文化財
木造狛犬
高さ115cmを有する木彫りの一対です。阿形・吽形ともに顎をひき、頭髪後毛は背中まで垂れ下がっています。彫刻は木目細かく、逞しい体躯が表現されています。製作年代は江戸時代前期と推定されます。

社頭掲示板



加佐美神社

元郷社 加佐美神社は昭和50年9月16日岐阜県神社長指定第76号を以て金幣社に列す。三代実録曰清和天皇貞観6甲申年(864)8月15日美濃國従五位下加佐美大神に従五位上を贈る。(旧暦)美濃雑事記加佐美神社は廷喜5乙丑年(905)各務郡曽原荘古市場にあり八幡宮と称す廷喜式明細帳曰美濃國各務郡七座の内、加佐美神社は廷喜8成辰年(908)式内社に列す美濃神名帳曰加佐美神社は二十二社の内、正四位下笠見明神とあり。蘇我石川麿公は往古曽原の県主たりし時百姓を撫綏、勧励老少大懷、因而、薨去後神霊、崇敬、し祭祀奉るとあり、「蘇原」の地名は、蘇我氏の領有に由来するといわれており、この蘇原に在住この地域を治めました。後に大和朝廷の財務を握り、帰化人氏族を統治し(境内に阿弥陀堂)また今の西側駐車場に根本寺が有ったように、進んで仏教を取り入れるなど、当時の進歩的派の代表であり、大化改新後右大臣となり大化5(649)年没。墳墓(当神社西に蘇原宮代町二丁目)の丘にあり宮塚と呼ばれています。山田寺大寺院跡礎石郡(当神社南西に蘇原寺島町)現在の山田寺地内、白鳳時代(大化5)年建立とあり、大和の山田寺に関係深いことから、石川麿公の菩提寺として石川麿公の子興志が建てたとされ、その艮に飛鳥田神を鎮守として祀ったとされています。なお、近くに(清住町)式内社飛鳥田神社(正三位下飛鳥田大神)があり、蘇我氏との深い関係が伺えます。

岐阜県神社庁



由緒

この土地は、その昔式内加佐美神社が「八幡宮」と呼ばれていた。
時の、神宮寺ともいうべき「禅宗」根本寺が建立されていた処である。
その後、明冶の御代に入り、神佛分離令によって明治4年廃寺となる。同6年1月15日(1873)同寺を仮校舎として「和親舎(かしんしや)」を創設する。同8年9月7日加佐美神社境内の施設舞台に移転し「和親学校」と改祢される。近代学校教育発祥の弛である。
その後、この土地は古市場村の管理地となり、昭和28年項に小町酒造株式会社金武吉兵衛氏の所有となる。
この度、昭和63年6月岐阜県が施工する境川改修事業にともない川沿いの境内地約900坪を売却、その代金の一部をもっでこの地約340坪を取得し、駐車場として造成したものである。
尚、根本寺本堂は西隣りに金武洋氏住宅として現存。和親学校となっだ舞台は、伊吹町二丁目清水好隆氏住宅として、現存。
昭和63年10月吉日建之
式内金幣社 加佐美神社氏子中

社頭掲示板



国の登録有形文化財

本殿
三間社流造、桧皮葺屋根、正面に千鳥破風を付け、規模は大きく、桁行三間、梁間二間の身舎に一間の向拝を付け、身舎の周囲に縁と高欄をめぐらす。 向拝は、身舎との間を海老虹梁でつなぎ、彫刻絵模様は木鼻は獏の彫り物、蟇股には松、牡丹、鳩の彫り物をつけ、貞享4年(1687)に造営された。
見応えのある構造である。
拝殿
入母屋造、瓦葺屋根、四方吹き放しの平舞台形式の建物で、桁間五間、梁間二間の規模をもつ、簡単な造りではあるが、延享3年(1746)に造営され、当初は茅葺の割拝殿形式だったものを天保2年(1831)に現在の舞殿形式の姿へと整えられた。
幣殿
明治43年建造の切妻造り、瓦葺屋根の建物で、桁行六間、梁間三間の規模をもつ。正面及び背面の壁全休に絡子戸を立て込む開放的な造りで本殿と接続する中央部は、屋根を一段高く上げ、蟇股や格天井を組んだ格式の高いものである。
加佐美神社 

社頭掲示板



加佐美神社

加佐美は假字也、○祭神詳ならず○東島村に在す、(明細記)
田中紀文云、笠神村にあり、今武儀郡也、
神位
三代實録貞観9年8月15日己巳、美濃國從五位下加佐美神授從五位上、本國神名帳、正四位下笠見明神

神社覈録



郷社 加佐見神社

祭神 不詳
創建年代詳ならず、社伝によれば、祭神は今不詳に属すと雖も、古来口碑の伝ふる所によれば、右大臣蘇我倉山田石川麿天智帝に仕へて功ある、美濃に封ぜられ、此地は之が食邑たりと、美濃明細記、神社覈録(式内飛鳥田神社(当固帳正三位飛鳥明神)古市場に存す、又東島と呼ぷ地に式内加佐美神社当國帳正四位下笠見明神存す」等、多くに加佐美神社は東島村にありとすれと、特選神名帳に云く、「何れも村地の近接するにより誤伝(東島村と)へたるものにて、東島村にはさる古社なく、古市場村にはいと古く神さびたる社地にて社殿もいかめしく、当社地に続きて北なる山を、古く笠見山と呼伝へたれば、更に混ふべくもあらずと云り、故今之に從ふ」とありて、(神祇志料にいふ所在亦古市場也)本社は式内加佐美神社にして、美濃國神名記に、正四位下笠見明神と志るしたる古社なり、新撰美濃志を見れば、飛鳥村は岩瀧の東にありて、蘇原庄とも曾原郷ともいふ、もと古市場村の枝郷なり、古市場村は飛鳥の南にありて曾原郷なり、飛鳥神社は村の北にありて今は大明神と称す、延喜神名式に各務郡飛鳥田神社と志るし、美濃國神名記に正三位飛鳥明神と見えたる官社なり、隣村飛鳥村は、もと当村の属邑なりしよしなれば、もと一村にて飛鳥が古名にて、のち古市場と改まりし成るべし、今古市鳩村の北山なる松林の中にます小社といへども、尊ふべき御神也」とあれば、此古市場村には式内加佐美、飛鳥田の二神社あるも各別途の神社とす、里伝によれば、本社は土俗八幡宮と称せし由なれども、維新の際之を改めて旧に復し。明治12年郷社に列せらる、古来曾原郷十村の産土神とす(神祇志料)社殿は本殿拝殿、舞殿、神輿庫、嗽水所等を具備し、境内坪数8761坪(官有地第一種)の外、社産として廣汎なる山林及び基金若干を有すと云ふ。

明治神社誌料



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