社名の南宮は美濃国一ノ宮の南宮神社を意味し、真墨田は尾張国一ノ宮の真墨田神社をいう。村国真墨田神社はこの二社の合祀と考えられている。 7世紀頃。この地域(美濃国各務郡)を支配していた豪族村国氏が美濃国一宮の南宮大社の主神「金山彦命」と尾張国一宮の真清田神社の主神天火明命を合祀して創建したという。 |
由緒 村國真墨田神社は、美濃國一宮の南宮大社(不破郡垂井町)の主神金山彦命(かなやまひこのみこと)と、尾張一宮の真清田神社(愛知県一宮市)の主神天火明命(あめのほあかりのみこと)さらに後になって、この地を支配していた地方豪族村國氏の中より、天武元年(672年)に起こった壬申の乱の際、大海人皇子(おおあまのおうじ後の天武天皇)に味方して功績をあげた村國男依(むらくにのおより)を、その後祭神として合祀し、古くから鵜沼の地の産土神として里人の崇敬を集めていました。 その社名は、十世紀初頭の法典である「延喜式」(えんぎしき)の中の一巻である「神名帳」の中にも見出される、美濃國式内社の一社であります。 又、当時の神社は現在の場所から数百メ−トル南の木曽川ぞいに有ったと伝えられ、その場所は現在は御旅所となっています。 その後、時代は下って戦国時代になり、神社は当時の武将大沢氏一族の守護神となり、その居城鵜留摩(うるま)城(現鵜沼南町城山)の外堀外部に位置していましたが、永禄年間(1558〜1570年)織田信長の美濃侵攻によって大沢氏は城を追われ、鵜沼地方は織田家領となり、更に天正十二年(1584年)小牧長久手の戦いにおける羽柴秀吉の犬山攻めに際して、この地の有力者であった河村惣六なる人物が秀吉に協力して恩賞を挙げた折、許可を得て現在の場所に神社を遷宮し現在に至っています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
村国真墨田神社御由緒 村国真墨田神社は、美濃国一宮の南宮大社(現不破郡垂井町)の主神金山彦神(かなやまひこのみこと)と、尾張国一宮の真清田神社(現愛知県一宮市)の主神天火明命(あめのほあかりのみこと)、更に後になって、この地を支配していた地方豪族村国氏の中より、天武元年(672年)に起こった壬申の乱の際、大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)に味方して功績をあげた村国男依(むらくにのおより)を、ぞの後祭神として合祀し、古くから鵜沼の地の産土神として里人の崇敬を集めていました。その社名は、十世紀初頭の法典である「延喜武(えんぎしき)の中の一巻である「神名帳」中にも見出いだされる美濃国式内社の一社であります。又、当時の神社は現在の場所から数百メートル南の木曽川ぞいに有ったと伝えられ、その場所は現在は御旅所となっております。 その後、時代は下って戦国時代になり、神社は当時の武将大沢氏一族の守護神となり、その居城鵜留摩(うるま)城(現鵜沼南町城山)の外堀外部に位置していましたが、永録年聞(1558〜1570年)織田信長の美濃侵攻によって大沢氏は城を追われ、鵜沼地方ぱ織田家領となり、更に天正12年(1584年)小牧長久手の戦いにおける羽柴秀吉の犬山攻めに際して、この地の有カ者であった河村惣六なる人物が秀吉に協カして恩賞を挙げた折、許可を碍て現在の場所に神杜を遷宮し現在に到っています。 神輿 毎年10月第二日曜日の例大察には昔神社をお祀りしていた木曽川ぞいの御旅所まで、屋形を先頭に鵜沼各地の子供御輿が参加して御神幸の儀が行われます 秀吉花押 小牧長久手の戦いの際に秀吉に協力した船頭河村惣六に対し、木曽川の渡河運送権を与える事を証明する秀吉自身の花押 (サイン〕の入った文書。 刀剣 戦国時代鵜沼地方の城主であった大沢氏の所蔵していたもの。 その内の一振は永正三年(1506年)時の城主大沢和泉守正行の弟大沢二郎佐衛門正継が出家する際残した村正と伝えられる。 社頭掲示板 |
村国真墨田神社 当社の祭神は天之火明命 彦火火出見命 金山彦命 岡象女命 村国雄依の5柱である。社名の由来は南宮 真墨田 村国の組み合わせで美濃の南宮神社の系列で尾張の真清田神社と同系である。村国は飛鳥時代当地方を治めた村国氏の祖を祀ることでつけられたものでこの地に散在する古墳が村国氏にゆかりが深いことはよく之を物語っている。醍醐天皇の御代の延喜式神名帳には村国大明神と有り天正12年までは南町部落郷倉にあった。戦国時代に到り鵜沼城主大沢氏の守護神をも兼ね永正3年時の城主大沢和泉守吉正の弟大沢治郎左衛門正継が出家の折り奉納した愛刀村正は現在神刀として保存されている。永禄10年鵜沼城は落城し織田領となり天正13年小牧長久手の戦いに船頭がしら河村惣六は豊臣軍に加勢して兵の渡河に協力その功により馬5頭と河川の特権を与えられ秀吉花印の書状を授かり之を奉納し当社の宝物となっている。惣六は喜んで村中氏子の同意を得て現在地に神殿を造営奉遷し現在に到っている。一番古い棟札はそのときのもので村国真墨田神社と社名が固定したのは安政以降である。 社頭石碑 |
村国真墨田神社 村國真墨田神社は、美濃國一宮の南宮大社(不破郡垂井町)の主神金山彦命(かなやまひこのみこと)と、尾張一宮の真清田神社(愛知県一宮市)の主神天火明命(あめのほあかりのみこと)さらに後になって、この地を支配していた地方豪族村國氏の中より、天武元年(672)に起こった壬申の乱の際、大海人皇子(おおあまのおうじ後の天武天皇)に味方して功績をあげた村國男依(むらくにのおより)を、その後祭神として合祀し、古くから鵜沼の地の産土神として里人の崇敬を集めていました。その社名は、十世紀初頭の法典である「延喜式」(えんぎしき)の中の一巻である「神名帳」の中にも見出される、美濃國式内社の一社であります。又、当時の神社は現在の場所から数百メートル南の木曽川ぞいに有ったと伝えられ、その場所は現在は御旅所となっています。その後、時代は下って戦国時代になり、神社は当時の武将大沢氏一族の守護神となり、その居城鵜留摩(うるま)城(現鵜沼南町城山)の外堀外部に位置していましたが、永禄年間(1558-1570)織田信長の美濃侵攻によって大沢氏は城を追われ、鵜沼地方は織田家領となり、更に天正12年(1584)小牧長久手の戦いにおける羽柴秀吉の犬山攻めに際して、この地の有力者であった河村惣六なる人物が秀吉に協力して恩賞を挙げた折、許可を得て現在の場所に神社を遷宮し現在に至っています。 岐阜県神社庁 |
村國眞墨田神社 村國は前に同じ、真墨田は末須美多と訓べし、○祭神在所等詳ならず、 類社 尾張國中島郡真墨田神社 神位 本國神名帳、從五位下真墨田明神 神社覈録 |
郷社 村國眞墨田神社 祭神 火明命 創建年代詳ならずと雖も、延喜の制式内小杜に列す、神名帳考証に「村園真墨田神社、大己貴命、河内國若江鏡神社、尾張國中島郡真墨田神社、真神田、真墨田、同國帳云、眞墨田明神、郡名各務鏡也、真墨此縁歟」と見え、神社覈録に、「村國真墨田神杜、村國真墨田は牟良久爾末須美多と訓べし、祭神在所等詳ならず、類社、尾張国中島郡真墨田神社、神位、本國神名帳、從五位下」とあり。新撰美濃志に「南宮杜は南町にありて鵜沼一村の惣社といふ、祠官後藤氏」と載す、社伝によれば。当社は古来眞墨田又は眞清田或は南宮など称へ、天正12年の棟札には、村國真墨田南宮大明神と記し、永禄3年鵜沼城主大沢次郎左衡門正次奉納の太刀袋には、村國眞墨田神社と書けむ、濃陽志略に曰く、「南宮は南町に在り、是鵜沼一村の総社なり、一説に曰く、当社は同郡村國神社の南方に当り、且つ本村の南方に位するを以て南宮とは称するなり」と、而して祭神に関し、大己貴命或は国常立尊など云ふ説あれども、吉見幸加が宗廟社程問答に曰く、尾張國真墨田神社は、一宮紀に大己貴命となせど非也、成務天皇朝天火用命十世の孫小止與命を以て尾張國造に定賜ふ云々、凡尾張氏遠祖等国内に祭る所のもの三十余座、其遠祖天照國照彦より出る所、火明命之を祭る、中島郡真清田神社は当國一宮と称す、眞清田首真髪部造真神田曾根連等の遠祖也、此大己貴命に非ざる所以也、」また古史伝に曰く、「天香山命の條に、天香山命石許理度売命に同神別称にて鏡造の祖神に坐し、亦尾張氏の祖神にも在て、其御父天火明命は尾張氏の太祖にて、則尾張中島郡清田神社に坐ます神名式に各務郡に村国真清田神社、然れば郡名の各務は鏡の由なること葡に、将之氏の各務はやがて鏡の借字なりけり、然ればこは伊斯許理度売天香山命一神の御名にして、火明命の御子なる説の殊に著明なるものぞ、倦美濃と尾張とは。古く一国のごとく聞ゆれば、其移り住るもいつよりと云ふことなく、此処にも彼処にも、其人々の己がむきむきに住ひけん云々」と、以て本社の由縁を窺ふべし、明治12年6月22日郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、渡殿、神楽殿、御輿等を具備し、境内坪数755坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |