丸山神社
まるやまじんじゃ
物部神社古社地
所在地 社名

















   【延喜式神名帳】物部神社 美濃国 厚見郡鎮座

   【現社名】丸山神社
   【住所】岐阜県岐阜市岐阜公園内
       北緯35度26分8秒、東経136度46分34秒
   【祭神】
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地が物部神社当初鎮座の地とされる

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】なし
   【境内社】

伊奈波神社の境外摂社丸山神社の社地。岐阜公園から岐阜城への道の途中にある。現在社殿はなく土台のみ残っている。


御手洗池

むかしうしろの山に伊奈波神社がありこの池で手を洗つて参拝したことからこの名がある。慶長5年(1600)関ヶ原合戦があり時の岐阜城主織田秀信は石田三成に味方し徳川軍の福島正則、池田輝政らに攻められ落城した。
そのおりに大勢の奥女中らがこの池に投身自殺したと伝えられる。
正史にはさありとも雁の涙おつ 塩谷鵜平
岐阜市

社頭掲示板



伊奈波神社旧跡

伊奈波神社の主神は、景行天皇の兄・五十瓊敷入彦命で武勇にすぐれ、大和丹波の神宝の管理していたが、その職をほかの命に譲り、晩年稲葉山麓(金華山)の丸山に居住されたといわれ、その偉徳を偲びこの地に祀られていたが、天文8年(1539)齋藤道三が稲葉山を居城とするにあたり、城より神社が下にあってはと伊奈波神社を丸山より伊奈波通の今の地に移した。丸山の北面の真下に神社に詣るときに手を洗ったという池があり、御手洗池という。慶長5年の岐阜城落城の際、奥女中がこの池に身を投げたと伝えられている。
神社跡地にある烏帽子の形をした岩は、長良川の川底に、神様が烏帽子をかぶせた岩が沈んでいるという人があり、神様の岩をそのままにしておくのはもったいないと、岩に縄を掛けて、丸山に引き上げた。すると、岩が沈んでいるとふれ歩いた人は、その時から大変幸せ暮らしたたという伝え話しもある。

社頭掲示板



伊奈波神社の旧跡としての稲葉山

稲葉山は伊奈波神社の旧社地であったとされる。『伊奈波神社略志』によると、当初の伊奈波神社は現在の地ではなく、稲葉山中腹の椿原(現在の丸山)にあり、峯本宮は稲葉山頂にあったとされる(丸山の位置は資料63参照)。また伊奈波神社では、丸山の麓に神主館等の施設があったと伝わっている。稲葉(因幡)および椿原という地名は、延文4年(1359)調進の伊奈波神社の縁起『美濃国第三宮因幡社本縁起』に見られる。縁起には、祭神の因幡大菩薩である五十瓊敷入彦命いにしきいりひこのみことの一族を祀るため、景行天皇の命を受けた武内宿禰が、「椿原金山」のふもとに社殿を構えたことが伊奈波神社の創祀であるとされている。この「椿原金山」という地名は、鏡を破る金石が奥州より美濃に運ばれ、一夜にして原が山となったという同縁起内の記述に基づくもので、「因幡(稲葉)山」「椿原」という名称の所以はここに語られている。
事実として稲葉山および丸山の地は長良川周辺の水運にすぐれた場所であり、この地方で有数の高さを誇る山であり、丸山に存在する烏帽子岩も含めて、人々の信仰の対象(聖地)となる要素を含んでいる。また、千畳敷の第3次調査等で多数の宗教施設の痕跡が確認されたことは一部伝承を裏付けるもので、それらを総合的に勘案すると、稲葉山は伊奈波神社の旧跡として十分あり得る場所であるといえる。
伊奈波神社に関する中央の記録としては、『続日本後記』および『日本三代実録』に官社として神位を授かる記録があり(承和12年・貞観11年・元慶4年)、縁起成立以前より古くから存在したことが分かる。また、一条兼良の紀行『藤河の記』には、名所として稲葉山の麓を通ったことが書かれており、縁起を引用している。おそらくは美濃在住の兼良の家族や、斎藤妙椿などの地元の者より縁起を伝え聞いたものと考えられる。参考として、軍記物の編纂物『船田後記』には、明応5年(1495)土岐政房・斎藤利国と土岐元頼・石丸利光の争乱(船田合戦)に際して、因幡山の「因幡神祠」で政房方が戦勝祈願をしたとある(ただし、後世の編纂物のためにこの祠が移転前の伊奈波神社を指すのか、移転後のものを指すのかは不明である)。
ところでこの時期、旧伊奈波神社は一時期廃れたようで、『梅花無尽蔵』の「濃州第三宮因幡大菩薩の祭礼再興の題辞」という文からは明応5年(1495)当時に祭礼が衰えていることと、今後は昔どおり盛んに祭礼を行うということが読み取れる。これに関連して、岐阜公園内の発掘調査においてもこのころの遺物は極端に少なくなっており、この場所に存在した宗教施設の活動も衰微していたと推測される。

岐阜城跡の調査 - 岐阜市



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