茜部神社
あかなべじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】茜部神社 美濃国 厚見郡鎮座

   【現社名】茜部神社
   【住所】岐阜県岐阜市茜部寺屋敷3丁目135番地
       北緯35度22分29秒,東経136度45分6秒
   【祭神】応神天皇 神功皇后 竹内宿禰
       『大日本史・神祇志』称縣明神、又曰茜部明神

   【例祭】4月5日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天長年中、筑紫宇佐宮より勧請
       弘治2年(1556)4月17日兵火焼失
       天正10年(1582)稲葉山城主織田信孝社殿造営
       慶長年中堀直政造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「茜部八幡宮」「県明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿

   【境内社】
   【神宮寺】成就院

天長年中、筑紫宇佐宮より勧請とされているが、恐らく古代・中世においては式内茜部神社(または県明神社)と八幡宮と二社祀られていたものが、中世末から近世初頭にかけて、茜部神社が、有力な八幡宮に合祀され、茜部八幡宮と称されるようになつたと思われる。


由緒

創設830年頃(天長年間)、祭神は応仁天皇(誉田別尊ほむたわけのみこと)、神功皇后(息長帶比売命おきながたらしひめのみこと)、武内宿弥(もとは比売大神ひめおおかみ)、祭礼4月5日・10月15日、東大寺荘園茜部荘(初めは厚見荘)は、710年頃できる。その守護神として830年頃勅令により宇佐八幡宮を勧請する。832年頃空海が神宮寺として成就院(本尊阿弥陀如来)を置く。全国神社約十万社中三万五千社は、八幡神社であり茜部神社は分社として十番目に古く有名な手向山、石清水、鶴岡より古い。祭神は宗社宇佐八幡宮を初め、応仁天皇、神功皇后(母)比売大神が大部分で、武内宿弥(臣)は希である。八幡神社の由来は複雑で五世紀頃に比売大神(海洋神・農耕神・鍛冶神)が祀られ、六世紀に応仁天皇(武勇・安全神・諸願成就神)、九世紀に神功皇后が合祀された。耶馬台国の卑弥呼は天照大神・壹与は比売大神との説がある。道三が信長と会見した帰りにここで休み、道三が亡くなった時の戦で兵火に罹っている。本社の御神体(本像)は、火災にて損傷しているが、一体はやや小さく明らかに比売大神である。明治維新の神仏分離で成就院の宝物は四散し、祭神比売大神は武内宿弥に変えられた。歴代加納城主の守護神であったし国守土岐政房の墓がこの裏にある。尾張藩主・稲葉城主・歴代加納城主らの奉納品が多く、昔は10月15日の祭礼には加納城から三十余人の騎馬行列で参拝に来て流鏑馬・走馬式があった。その後戦前は花火・神楽芝居に多数の露店が出て賑わった。昭和25年岐阜市に合併し、祭礼も4月5日となる。式内社・郷社であった。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



茜部神社

創設830年頃(天長年間)、祭神は応仁天皇(誉田別尊ほむたわけのみこと)、神功皇后(息長帶比売命おきながたらしひめのみこと)、武内宿弥(もとは比売大神ひめおおかみ)、祭礼4月5日・10月15日、東大寺荘園茜部荘(初めは厚見荘)は、710年頃できる。その守護神として830年頃勅令により宇佐八幡宮を勧請する。832年頃空海が神宮寺として成就院(本尊阿弥陀如来)を置く。全国神社約十万社中35000社は、八幡神社であり茜部神社は分社として10番目に古く有名な手向山、石清水、鶴岡より古い。祭神は宗社宇佐八幡宮を初め、応仁天皇、神功皇后(母)比売大神が大部分で、武内宿弥(臣)は希である。八幡神社の由来は複雑で5世紀頃に比売大神(海洋神・農耕神・鍛冶神)が祀られ、6世紀に応仁天皇(武勇・安全神・諸願成就神)、9世紀に神功皇后が合祀された。耶馬台国の卑弥呼は天照大神・壹与は比売大神との説がある。道三が信長と会見した帰りにここで休み、道三が亡くなった時の戦で兵火に罹っている。本社の御神体(本像)は、火災にて損傷しているが、一体はやや小さく明らかに比売大神である。明治維新の神仏分離で成就院の宝物は四散し、祭神比売大神は武内宿弥に変えられた。歴代加納城主の守護神であったし国守土岐政房の墓がこの裏にある。尾張藩主・稲葉城主・歴代加納城主らの奉納品が多く、昔は10月15日の祭礼には加納城から30余人の騎馬行列で参拝に来て流鏑馬・走馬式があった。その後戦前は花火・神楽芝居に多数の露店が出て賑わった。昭和25年岐阜市に合併し、祭礼も4月5日となる。式内社・郷社であった。

社頭掲示板



石造狛犬

岐阜市重要文化財 石造狛犬
令和3年3月30日指定
茜部神社の石造狛犬は、やや緑色を帯びた笏谷石製で、阿形像の背には「茜部八幡宮」、阿形像の左前脚、吽形像の右前脚にも銘があります。摩耗や表面の剥落がありますが、「寄進 奥田勝左衛門」ど読み取れます。
笏谷石は、福井市の足羽山で採れる火山礫凝灰岩で、戦国時代には国外へ持ち出されたものが少ないことが特徴です。岐阜県内の笏谷石製品の狛犬は少なく、茜部神社の狛犬は貴重な事例です。
狛犬は、前脚に刻まれた「奥田」から茜部在住の有力者「奥田氏」が奉納したものと考えられます。奥田氏は越前北庄城(福井市〕の城主堀秀政(1553〜1590)とは親戚関係にあり、笏谷石製品を入手することができたと考えられます。茜部神社には、秀政のいとこである堀(奥田)直政(1547〜1608)の拝殿再建の援助に閏する慶長期頃の書状が残されている.ことから、この時に奉納した可能性も考えられます。

社頭掲示板



茜部神社

茜部は阿加奈倍と訓べし〇祭神詳ならず○下茜部村に在す、今八幡宮と称す、(明細記)
神位
本國神名帳、從五位下茜部明神、

神社覈録



郷社 茜部神社

祭神 応神天皇 神功皇后 武内宿禰
淳和天皇天長年中勅諚により、筑紫宇佐宮より勘請鎮祭す、即ち神名帳考証に、「茜部神社、今加納南有茜部村、赤留姫命、摂津国赤留比売命神社。大和國和加宇加売神社」と見え、神社覈録に「茜蔀神社、茜部は阿加奈倍と訓べし、祭神詳ならず、下茜部村に存す、今八幡宮と称す、(神祇志料美濃式社考)」而して美濃神名帳に従五位下に叙せられし由見ゆ、特選神名帳に云く、「茜部神社、祭神、今按社伝八幡大神と云へど、本郡上茜部に比奈守神社ありて神功皇后を祭ると云より、かく伝ヘたる歟、未だ本拠を詳にせず、故今附て考を侯つ、所在下茜部村」と、又新撰美濃志に曰く、「茜部村は下手川の西南にあり、加納領二千二百九十石三斗六升、中茜部、下茜部、大野村、新庄村、更屋敷村は茜部のうちなり、飛田守明神社は上茜部にあり、延喜神名式に厚見郡比奈守神社と見え、美濃神名記に從五位下比奈守明神とある官社なり、八幡宮は下茜部にあり、もとは微々たる小祠なりしが、加納の城圭松平飛騨守忠隆修造ののち大社となる」と、尚社伝によれば、弘治2年4月17日、兵災に罹りて社殿焼失せしも、続いで之を再建す、爾来幾度か修理の後、現時存するもののうち、社殿は織田信孝、拝殿は堀直政の再興に係ると云ふ、神領は、曾て土岐伯耆守頼員十一貫八百文の社田を寄附し、加納氏の代に至り、神輿料として社田二段八畝歩を寄附し、其他累代の領主逐次寄連せられしを以て、維新の際は、右神輿料の外社田一町六段四畝二十二歩、并に境外除地五段六畝歩の多額を有せしも、明治4年悉ぐ上地となる、昔時社域の広漠たりしことは、当時本社の一の鳥居と称するもの、古跡、今尚社頭の南柳津に存ずるを見ても知るに足らんか、又氏子の多き、今より二百年前までは茜部全村の総社なりしを、故ありて下茜部の生土神となりしと云ふを以て察すべきか、明治6年1月一大区十二小区の郷社に列せらる。
社殿は本殿仮拝殿、手水屋、御旅所、玉垣等を具備し、境内坪数1708坪(官有地第一種}を有す、特有の祭事は、昔時藩主の石高に応じて馬匹を出し、走馬式ありと云ふ

明治神社誌料



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