当社を比奈守神社とする説あるが不詳。 |
手力雄神社御由緒 御鎮座 貞観2年(西暦860年)旧暦9月14日(現在の10月22日) 御祭神 天手力雄命(あめのたちからおのみこと)(通称 てちからさま) 御由緒 古来、都に軍勢が上る時、東海道より東山道(後の中山道)に移るには木曽川渡河点として必ず長森を通ることから美濃側の防御拠点として御鎮座。後に土岐頼遠が長森城を築くも同趣意。 延喜式に「鄙守神社」(ひなもり神社)とあり、美濃雑事記に「ひなもり神社、いま手力雄神社という」とある。以来平時は洪水を抑え、干天には慈雨を賜い、良民を慰撫し、長森は花園天皇の代(南北朝)まで皇室領であった。 上総の介(織田信長)美濃侵攻の時は一部岐阜町まで侵入を許したが、長森口は拒止し、墨俣一夜城、川並衆調略によって背後を攻められ、陥落。織田中納言秀信公の祈願所として尊崇されたが、西万お味方のため、関ヶ原合戦の前哨戦で東軍の蹂躙するところとなる。 小野木藤衛門御神体を背負い難を避け、戻って来た時には朱い鳥居と社額が燃え残るのみであった。この社額は当社ご神宝。 細畑小木曽氏、柳原氏による「元和二年」の幟奉納は、この時の社殿復興より今日まで続いている。 天正14年大地震と洪水で末曽川の本流が境川から現在の流路に移る。 天保3年より円城寺区雨乞い。(お藤伝説) 一鳥居は美濃赤坂にあったという。中山道が美濃赤坂より鵜沼まで舟航時代の名残。二鳥居は現在の中山道と神社参道の境に立つ。長森騒動の際は切通駅近くにあり、加納藩が聞き取りに当たった。三鳥居は朱い烏居。 火祭りは明和年間に中断し、文化2年再開した。旧暦9月14日御鎮、座を祝い奉納された。「打ち上げ」「手花火」「からくり」などを奉納。 御神徳 「手」の働きには押す・引く・曳く・撃つ・撚る・捻る・摘む・書く・割る・裂く・投げる・撫でる・爪弾く・掴む・握る・持つ・数えるなど、様々な働きがあり、手話と言うように人の意図するところをおおよそ実行する。 天の岩戸を開き、天照皇大神をお導きになった。伊勢の「神宮」の御正殿には中央に鏡「天照皇大神」西に剣「万幡豊秋津姫命」と共に東に弓「天手力雄命」がお祀りされている。武芸・技芸・芸能・学問の守護神であり、軍神でもある。 雨乞いに効験ありとされる。逆に洪水を抑える神とも言われる。 近隣には各務原市に那加手力雄神社があり、みてぐら明神とも言う。大垣市の市民病院隣の手力雄神社は禾の森(のぎのもり)とも言う。美濃市大矢田神社境内に天手力雄命を祀る。 全国に八十余社の天手力雄命を祀る神社がある。 社頭掲示板 |
手力雄神社火祭り 岐阜県指定重要無形民俗文化財 手力雄神社火祭り 昭和52年3月11日指定 火祭りは毎年四月の第二土曜に、手力雄神社の春の例祭として行われる。 火祭りがいつから始まったかは明らかではないが、明和年間(1760年代)に一時中絶し、文化2年(1805)に復活したといわれる。 当時は手花火・カラクリ・立火などが行われていたらしいが、変遷を経て現在のような形になった。 宮寄りと称する会合を三・四回行い、各町内の分担を定め、当日を迎える。 祭りの順序は次のとおりである。 神前祭-巫女の舞−神輿渡御−長持宮入−かざり神輿営入−御神灯点火(御幣行灯)−滝花火点火(火瀑)−舞花火点火-山焼き なかでも、滝花火の下で各町内のかざり神輿がみそぎを受けるさまは、男らしさに満ちた勇壮なものである。 昭和60年12月 岐阜市教育委員会 社頭掲示板 |
手力雄神社 天の岩戸神話 須佐之男命は父の伊弉諾尊の命に従わず、姉の治める高天原に上ってゆく。 そこで乱暴のかぎりを働く。畦放ち・溝埋め・尿まり、とこそ、天の斑駒を服屋の棟から投げ込み服織姫を殺してしまう。 天照皇大神は天の岩戸に隠れてしまわれて、世の中は真っ暗になり、悪い神の声が充ち満ち、悪い事が次々と起こる。八百万の神々は天の安の河原に集まり、鏡を創り、勾玉を創り、神籬を立てて天宇受売命が盥を踏みならして舞を舞う。 天照皇大神が何事が起こったのかと不審に思われて岩戸を少し開いて覗かれた時に、天宇受売命が「貴女より尊い神が現れたのです」と答え、天児屋命が鏡を差し出し、布刀玉命が後ろに注連縄を引き渡し、天手力雄の神が天照皇大神の手を執って導き出された。 須佐之男命は爪と髭を切られ、高天原を追放される。出雲国斐伊川の河上に降り立たれて八岐大蛇を退治し、大国主命の祖先となられる。 伊勢の神宮には御正殿に三神が祀られていて、正面に鏡を配し、天照皇大神。東に弓を配し、天手力雄神。西に剣を配し、万幡豊秋津姫命と言われる。手力雄大神は皇室に御縁の深い神様なのである。 御鎮座次第 御鎮座 貞観2年(860) 旧暦9月14日(現在の10月22日)御祭神 天手力雄命(あめのたちからおのみこと)通称「てちからさま」 「手力様お助け下さい」と三度唱えることから「お」は脱落する。 御由緒 木曽川を東から京に上った軍勢は、源範頼が最初であったと思われる。東海道を西進し、熱田に至ると、通常七里の渡しで桑名に至る。木曾三川の渡河を一度で済ますためだが、何千、何万の軍勢が敵前を渡河するには、北進し、徒歩で渉れる長森口を渉るしかない。これに最初に気付いたのは坂上田村麻呂と思われる。当否は別にして東軍の防ぎに、美濃側の防御点として戦略上の要衝である長森に手力雄神社は築かれたと思われる。貞観2年とは坂上田村麻呂が宮城(みやぎ)を築いた直後である。 延喜式に「鄙守神社」とあり、美濃雑事記に「ひなもり神社、いま手力雄神社といふ」とある。 平安朝の荘園時代、厚見郡の大半「鶉・茜部」は東大寺領であったが、長森は花園天皇(後醍醐天皇の父君)の代まで皇室領であった。花園天皇の寄進により、京都大徳寺の荘園となった。 おふじ伝説と雨乞 昔ある年旱天の年がありました。蔵前から「円城寺村」に雇われて行った小娘の「おふじ」が「手力様に願掛けすれば御利益がある。」と言ったので、村中で手力様に願をかけました。 しかし、一向雨は降らず、嘘つきよばわりされた「おふじ」は木曽川に身を投げて死んでしまいました。するとその日から雨が降り続き、秋の実りを得ることができました。 円城寺の人達は「富士神社」を建て、雨乞い踊りとして芭蕉踊りを奉納するようになりました。 天保3年・嘉永6年・明治26年・42年・大正2年・昭和56年に芭蕉踊りの奉納の記録があります。 火祭りの始まり 始まりは不明と言わなければならない。 明和年間(1764〜72)村の頭百姓と火打拓之丞(ひともしたくのじょう)とが争論(裁判)になったため、中断。文化2年(1805)争論が収まり再開した。と記録にある。 鉄砲火薬とは関係なく、全国各地の農村では手作りの花火が行われていた。昭和30年代各地の花火が中断する中で当地の花火が珍しくなった。 略年表 貞観2年(860)庚辰9月14日御鎮座 文治年間(1185〜90)渋谷金王丸長森城に居住(美濃明細記) 建武・暦応(1338〜42)土岐頼遠切通に長森城を築く。美濃の国府となる(土岐累代記-土岐斎藤軍記) 観応3年(1352)長森城は南朝方の攻撃を受ける(鷲見加々丸軍忠状写) 応永32年(1425)長森領家方は皇室領であったが、花園天皇より大徳寺に寄進 土岐頼康の時守護請けとなったが、やがて退転した(大徳寺雑掌目安案) 文明16年(1484)足利義政御教書により大徳寺領と確認(大徳寺文書〉 長享2年(1488)美濃国長森内領家方貢銭注文には「石永・タカタ・せツタイノ・ウカイ島・蔵前・定重・北一色・キシノ・前一色・イモ島」の地名が挙げられている(大徳寺文書) 弘治年間(1555〜58) 斎藤氏の祈願所となる 永禄4年(1562)織田氏美濃攻略。長森も蹂躙される 天正3年(1575)「濃洲長森長谷河甚兵衛分」の所領を兼松又四郎正吉に扶持(「織田信長朱印状」兼松文書) 天正10年(1582)本能寺の変 天正14年(1586)大地震-大洪水で木曽川の流路境川から現在の位置に変わる 尾張国葉栗郡中島郡の美濃側に残った部分は羽島郡となる 慶長年間(1595〜1614)織田中納言秀信公により、織田家の祈願所となる(稲葉郡史) 慶長5年(1600)関ヶ原の戦い。織田家西方のため東軍の攻略に遭い、長森は灰儘に帰した。神主小野木藤衛門ご神体を背負い難を逃れた。 戻った時には朱い鳥居と社額が燃え残るのみであった 元和2年(1616)本殿再建(当社棟札) 元和6年(1620)幣殿再建(当社棟札) 元和9年(1623)拝殿再建(当社棟札) 元禄12年(1699)加納藩用人三宅佐兵衛野一色を開墾。野一色新田とする。 後、佐兵衛新田と改名 明和年間(1764〜72)村の頭百姓と火打拓之丞と争論のため火祭を中断 文化2年(1805)争論が収まり火祭を再開する。 手花火・カラクリ・立ち火などを行う 文政8年(1825)長森騒動。前一色山に集結。磐城平藩の妥協で終結 文政12年(1829)長森騒動。農民100名捕縛・7名獄死 天保3年(1833)円城寺村雨乞。以後嘉永6年・明治26年・明治42年大正2年・昭和56年に雨乞 明治元年(1868)廃仏毀釈令のため仏像仏具を廃棄。薬師堂を願照寺に移転 明治4年(1872)郷社に列す 明治13年(1881)拝殿・幣殿造営 明治18年(1886)本殿流れ造りから神明造りの変更 明治24年(1892)濃尾震災 大正14年(1925)手水舎・神輿庫建造 昭和15年(1940)遙拝殿造営 昭和20年(1945)終戦・内務省廃止により宗教法人となる 昭和34年(1959)伊勢湾台風。舞殿・絵馬堂その他倒壊 昭和35年(1960)秋の例祭と火祭りを分離。4月5日岐阜祭に火祭を行う 昭和36年(1961)「火祭」岐阜市無形文化財の指定を受ける 昭和39年(1664)参集殿・社務所竣工 昭和52年(1977)「火祭」岐阜県重要無形民俗文化財の指定を受ける。 「僧形神像」「瓶子一対」県重要文化財の指定を受ける 昭和60年(1985)玉垣竣工 平成6年(1994)火祭を四月第二土曜に変更 平成20年(2008)平成の御造営本殿を神明造りから流れ造りに戻す 由緒書 |
手力雄神社 貞観2年9月14日(陽暦10月6日)鎮座。正一位。本社創立は貞観2年9月14日(陽暦10月6日…三正綜覧)と社伝す。旧記に美濃國厚見郡長森郷石永山手力雄大明神の義は清和天皇貞観2年9月14日御勧請云々。慶長5年関ヶ原役の際、旧記古文書も灰燼となり、古き由緒を詳にせざれども、美濃國神明帳に載する所の厚見郡諸ェ社の中なる従五位下手力雄明神は当社なり。新撰美濃志序Z之巻厚見郡蔵前村の条。手力雄明神は近代正一位を進む。美濃神名記に厚見郡従五位下手力雄明神とあるは此社なるべし。近隣十余ヶ村の産土神なり。例祭9月14日花火を興行す。遠近の諸人見物に来る比類なき壮観なり。本社の所斎の字名を比奈と称し、本社が延喜式所載する所の厚見郡三座の中の比奈守神なりと云ふ。美濃雑事記、比奈守神社、延喜式内厚見郡長森に在り。加納より高田新加納の間にあり。今手力雄神社と云ふ。明治4年5月郷社に列す。第一大区第十三小区…手力雄神社、領下村、細畑村、前一色村、岩地村、水海道村、左兵衛新田、野一色村、北一色村、日野村、岩戸村、日野新田、切通村、蔵前村、高田村、芋島村、東中島村。棟札。元和2年9月社頭一宇、元和6年弊殿、同9年拝殿再建、寛文12年本殿再営、元禄元年葺替、宝永3年7月、享保6年5月、元文5年寛保元年、元禄3年、延享4年、天保9年天保15年。宝永頃の社地は僅かに一町三反十六歩余のみ。 岐阜県神社庁 |
郷社 手力雄神社 祭神 手力雄神 創建年代詳ならす、社伝によれば、貞観2年9月14日勧請す、即ち美濃國神名帳に、厚見郡從五位下手力雄明神と載せ、十八社の一に数へたるもの即ち是なり、而して創立の社殿は頗る宏壮を極めたるのみならす、四方の崇敬厚くして、慶長年中神領として永代七十貫文の地を寄進せられ、次いで岐阜中納言秀信卿の祈願所となり、七百五十石を寄附せらる、然るに慶長5年岐阜城没落に際して兵焚に罹り、社殿は勿論古文書宝物類に至るまで、多くは焼失す。元和年中再建す、相伝ふ、往古本社の金王丸の鎮護神と崇めし社域の広大なることは、社頭を距る五六町許、西切通村の内木曾往来に一の鳥居跡と称する所あるのみならず、今此地を呼ぴて鳥居町と称するを以ても知るべし、其後一の鳥居は大門の処に移せしものにして此地は澁谷金王丸の城趾なりとの故を以て今に小宇を御館と云ふ、新撰美濃志に云く。臓前村は切通の東北にあり、岩城領六百七十石六斗六升、手力雄明神社は近代正一位に進む、美濃神名記に厚見郡從五位下手力雄明神とあるは此社なるべし、近隣十余ケ村の生土神なり、例祭9月14日、花火を挙行す、遠近の諸人見物に来る、比類なき壮観なりと云ひ、或は云く、本社は里俗長森神社と称せし由傅ふれども詳ならす、且つ神宝として、菅原道眞の手力大明神の五大文字を書ぜる扁額を藏すといへども、尚一考を要すべし、明治7年郷社に列せらる。 社殿は本殿。幣殿、拝殿、覆殿、絵馬殿、嗽水所、社務所等を具備し、境内坪数1812坪(官有地第一種)の外、官有道路敷地1007坪を明治34年中墳内に編入許可せらる。 明治神社誌料 |