比奈守は夷守であろう。古事記や「魏志倭人伝」にもある古代の役職といわれている。 飛騨(ヒナからきたという)に対する守りとも、すぐ南の境川が旧木曾川で美濃・尾張の境界であつたから、大和朝廷の統一過程のある時期対立する尾張への防衛の第一線としてヒナモリ」神社が祀られたとも言われている。 |
比奈守神社 創祀不詳なれども、延喜式神名帳美濃國厚見郡(三座の内)比奈守神社美濃國神名帳厚見郡(十八社の内)従五位下比奈守神社は当社なり。その他旧加納藩神名帳美濃國明細帳塘叢新撰美濃誌美濃國式社考橋不破本神名帳岩井本神名帳等諸書に記載する所にして、式内古社なること明なり。然るに此の地は明応年中時陪臣石丸玄蕃利光(斉藤利藤臣船田上茜部の内)に新城を築き、土岐の宗家と合戦の時、社殿及び旧記等兵火の為に灰燼となる故に勧請年暦並びに上古の事蹟不詳。その時此辺民家多くは散亡して社殿再建せんとするもの無かりしに其の後上茜部出産の八郎右衛門と云ふ者越後國に在り、彼の國其の藩士となりて是を嘆き、金若干を寄進し、社殿を造営す。現金存する所是なり。従前社号飛田森と訛り来る所、明治元年神社取り調べの際前記比奈守と改号す。同社奉仕修験職慈性院明治元年復職して神主に転職す。明治4年村社に列す。 岐阜県神社庁 |
比奈守神社 比奈守は比奈毛里と訓べし○祭神詳ならず○上茜部村に在す、 神位 本國神名帳、從五位下比奈守明神 神社覈録 |