若江神社
わかえじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】若江神社 美濃国 方県郡鎮座
          (旧地)若江神社【旧地】

   【現社名】若江神社
   【住所】岐阜県岐阜市東改田・西改田入会字海渕 1
       北緯35度26分49秒,東経136度42分14秒
   【祭神】応神天皇 気長足姫命 玉依姫命
   【例祭】4月4日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】明治初年若江神社と改称
       明治5年 郷社に列せらる
       大正4年12月1日火災焼亡
       大正5年 本殿再建

   【関係氏族】若江氏
   【鎮座地】当初鎮座の地は当社の北東500mの若宮という地
        板屋川の氾濫で、社殿が流出し、当地に漂流

   【祭祀対象】本来は泉を祀る
   【祭祀】江戸時代は「若宮八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】神明神社・春日神社

神社鎭座地に接して西に、以前は泉が湧いて居り、渦をまいて池をつくり、流れとなつて南へ押し出していつたという。
この地を開拓した若江の一族が水源に神社を建ててまつつたのが若江神社の発端であろう。
一説に、昔は、当社の北東500mの若宮という地に鎮座していたという。
明治5年に郷社となったさい、若江神社に改称


由緒

祭神は、応神天皇、気長足姫命、玉依姫命を奉斎。境内社に神明神社(天照大神)、春日神社(武甕槌命)を祀る。平安時代第六十代醍醐天皇の時代に記載された延喜式神明帳に美濃国方県郡若江神社とあるのが、この式内若江神社である。約1100年の歴史がある格式の高い神社で神域は壱町七反余りで椎や椋の古木が昔の面影を残している。明治五年郷社に列せらる。大正5年本殿再建。昭和31年拝殿、渡廊、祝詞舎再建(東西改田氏子百五拾戸)。昭和47年本殿の保護殿新築。昭和49年笑福町楓町氏子となる(氏子770戸)。昭和50年第一の石鳥居建立。昭和57年社務所再建、玉垣、御手洗、由緒碑、燈篭、燈明台建設。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




若江神社

若江神社由来
 郷社 式内 若江神社
岐阜市東西改田入会地海渕鎮座
祭 神 應神天皇、氣長足姫命、玉依姫命
境内社 神明神社(東側天照大神)春日神社(西側武甕槌命)
祭 日 例祭 4月5日 元旦祭 1月1日
春祭 2月17日 秋祭  11月23日
 平安時代第六十代醍醐天皇の時代に記載された延喜式神明帳に美濃国方県郡若江神社とあるのがこの式内若江神社である。
 約1100年の歴史がある格式高い神社で神域は壱町七反余りで、椎や黐の古木が昔の面影を残している。
明治5年 郷社に列せらる
大正5年 本殿再建
昭和31年 拝殿・渡廊・祝詞舎再建(東西改田氏子150戸)
昭和47年 本殿の保護殿新築
昭和49年 笑福町、楓町氏子となる(氏子770戸)
昭和50年 第一の石鳥居建立
昭和57年 社務所再建、玉垣、お手洗い、由緒碑、燈籠、灯明台建設

社頭石碑



若江神社

祭神は、応神天皇、気長足姫命、玉依姫命を奉斎。境内社に神明神社(天照大神)、春日神社(武甕槌命)を祀る。平安時代第60代醍醐天皇の時代に記載された延喜式神明帳に美濃国方県郡若江神社とあるのが、この式内若江神社である。約壱阡百年の歴史がある格式の高い神社で神域は1町7反余りで椎や椋の古木が昔の面影を残している。明治5年郷社に列せらる。大正5年本殿再建。昭和31年拝殿、渡廊、祝詞舎再建(東西改田氏子150戸)。昭和47年本殿の保護殿新築。昭和49年笑福町楓町氏子となる(氏子770戸)。昭和50年第一の石鳥居建立。昭和57年社務所再建、玉垣、御手洗、由緒碑、燈篭、燈明台建設。延喜式神名帳方縣郡(二座の内)若江神社。美濃國神名帳方縣郡(十一座の内)従五位上若江明神は当社なり。改田の村名は元楓村の転訛か。当村一円の字を楓里或いは楓郷と云へり。若江も楓の略ならんか。

岐阜県神社庁



若江神社

若江は和加衣と訓べし○祭神在所等詳ならず
神位
本國神名帳、從五位上若江明神

神社覈録



郷社 若江神社

祭神 応神天皇 息長足姫命 玉依姫命
創建年代詳ならずと雖も、延喜式神名帳方縣郡二座の一なり、神名帳考証に、「若江神社、若飯豊別命、姓氏録云、若江造、出自後漢霊帝苗裔奈率張安刀也、日本紀云、齋明天皇6年、献唐俘一百余人、今美濃不破、方縣二郡唐人等也、」と見え本國神名帳に、從五位上若江明神とあり、神社覈録には、祭神在所等詳ならずとすれど、神祇志料に、今鵜養郷西改田村にり、誤て若宮八幡と云ふ(式内神社考証)とあり、今按するに、若江八幡と云ふによりて祭神八幡神なるべく思はるれど、もと若江神社と云ふを、世人の聞きなれぬことに思ひて、若江を若宮と謬り、即ち人幡宮などと云へりしものなるべきか、新撰美濃志に、「西改田村は東改田の西にあり、元和高帳には皆田とのみありて東西の事なし、岩城平領六百八十一石三斗七升八合、八幡宮社村内にあり」と見ゆ、今は改田、今川部、又丸、尻毛など、併せ、七郷村と改称す、改田は古書に開田に作れる地なるべし、氏族志に、「源重長、居美濃木田、称木田氏、子重国、称開田氏、承久之乱、重国與子重知、姪重季、倶殉難焉」などあり、古老の口碑によれば、往昔本社の北方に数囲の一大楓樹あり、今朽廃して有らざれども、其跡に注連縄を引廻して之を存す、之に依って考ふれば、改田の村名はもと楓村の、転訛ならん、又云ふ、当村一帯を楓の里或は楓郷と唱へたれば、蓋し若江は楓の略語ならんか、姑く記して後の考定に備ふ、慶長年間大久保石見守、宝永年中大久保加賀守、寛文13年松平丹波守等は検地に際し、毎に社領若干を除地とせられたりしも、明治の初年悉く上地となると云ふ、維新の初め奮號に復し、明治12年に至りて式内郷社に列せらる。
社殿は明治24年10月大震炎のため悉く倒潰せしを以て、今や本殿一宇なれども、外に嗽水所、鳥居等を備へ、境内坪数990坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



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