方県津神社
かたがたつじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】方県津神社 美濃国 方県郡鎮座
          (旧地)方県津神社【旧地】

   【現社名】方県津神社
   【住所】岐阜県岐阜市八代3丁目13番1号
       北緯35度27分39秒,東経136度46分21秒
   【祭神】丹生川上摩須郎女命 (合祀)天照大神
       美濃県主の租神を祀った神社と思われる。

   【例祭】
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       明治7年郷社
       昭和32年縣神社から方県津神社へ改称

   【関係氏族】美濃県主
   【鎮座地】旧地は八代1丁目6−7番地付近

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「県明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造檜皮葺
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】

古墳上に本殿・幣殿・拝殿と並び、石段を下りると社務所がある。


由緒

日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。日子坐王の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍の御一人で、別名彦多都彦命(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社方県津神社御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五十瓊敷入彦命は(伊奈波神社)妃淳熨斗媛命(金神社)、その御子市隼雄命(橿森神社)及び擁烈根命(県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




方県津神社

由緒
日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。日子坐王の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍の御一人で、別名彦多都彦命(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社方県津神社御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五十瓊敷入彦命は(伊奈波神社)妃淳熨斗媛命(金神社)、その御子市隼雄命(橿森神社)及び擁烈根命(県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る。
御神徳
森羅万象の犯せる罪けがれ禍事を祓い、正常な姿にかえさせ給う。往古(奈良時代)に栄えた、商業繁栄、交通安全、生成育化の守護神として、厚き信仰を受けられている。
平成4年9月元祭に記念事業として建立する。
記事文 宮司 小島幸男
奉納者 清水碧
奉納者 酒井文男

社頭掲示板



沿革

社名 延喜式内社 方県津神社
鎮座地 岐阜市八代3丁目13番地1号面積2493u
 八代1丁目6−7番地付近より移転 現地八代古墳枡塚に鎮祭
祭神 丹波之河上之摩須郎女命
社格 明治7年郷社に列格
摂末社 豊受大神 秋葉大神を鎮祭
招魂社 氏子出身の戦病死者の英霊を鎮祭
社殿 本殿以下社殿は古墳上
造営 本殿の再建は元禄8年9月の棟札有り
祭儀 4月大祭、6月夏祭、9月元祭、11月秋祭、12月煤払の儀
1月元旦祭、1月左義長の儀、2月建国祭、3月秋葉祭、毎月の月並祭
氏子 1400世帯

社頭石碑



方県津神社

日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。日子坐王の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍の御一人で、別名彦多都彦命(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社方県津神社御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五鐘五十瓊敷入彦命は(伊奈波神社)妃淳熨斗媛命(金神社)、その御子市隼雄命(橿森神社)及び擁烈根命(県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る。当社は創立年月日不詳なるも、日本書紀に美濃國方縣郡式内社従二位方縣津大明神は中福光村八代の郷に鎮座すとあり。美濃國神明帳に従三位方縣津明神とありて、祭神は垂仁天皇子、日子坐の子印色之入日子之命の外祖父、丹波比古多々須美和能字斯王姫丹波之河上之摩須之郎女(縣氏三女)を主神とし、之に縣氏の祖神を合せ祀りしものにして、是れ明治神宮誌料により明らかなり。(中略)往古当所は伊勢湾の海水爰に浸入し、大船の往来繁く、肩と肩を接する程の賑わいなりし故肩々津港と称され、後方縣津と転訛し、本社も方縣津神社と称したるもののごとし。昭和32年12月7日縣神社を方県津神社に変更。尚、当神社は五世紀頃の古墳上(円墳直径40m高さ4.5m)にあり、かつて北側と東側に周濠があった。この古墳は通称「枡■」と言っているが、これはご祭神「丹波之河上之摩須之郎女之命」の「摩須」が転訛したもので、「摩須■」が正しいと思われる。

岐阜県神社庁



方縣津神社

方縣は郡名に同じ、津は都と訓べし、○祭神詳ならず○福光郷八代に在す(明細記)
神位
本國神名帳、從二位方縣津明神

神社覈録



郷社 縣神社

祭神 不詳
創建年代詳ならず、社伝によれば、祭神は垂仁天皇子日子坐王の子、印色之入日子命の外祖、丹波比古多々須美和能宇斯天妃と、美濃國式社考に「方縣津神社、在方縣郡八代村、去岐阜邑北二里許、今称縣大明神、神名未考」と云ひ、本国神名帳に、「從二位方縣津明神」と見え、(神社覈録、美濃細記撰美濃志)美濃国神名記に從二位方縣津明神と見えたる古社なり。当郡本貫の縣氏の人等が、祖神を祀りし社なるべし、縣氏の事は日本霊異記に、「女人産生石「以之為神而斎縁、第三十一、美乃國方縣郡水野郷楠見村。有女人、姓縣氏也、年迄于二十有余才不嫁、未通而身懐妊、逼之三年山部天皇世、延暦元年癸亥春二月下旬、産生二石、方丈五寸、一色青白斑、一色専青、毎年増長、有比郡名曰淳見、是郡部内、有大神、名曰伊奈婆、託卜者言、其産二石、是我子、因其女家内、立忌離而斎、往古今来、末都見聞、是亦我聖朝奇異事矣、今按此石神は即式の津社にて、水野は御を添へし言葉也」と云へり、濃陽誌略に、「縣明神は村民奉祀とあり、古老の説によれば、村名八代は往昔八社と書き、或は転じて八ッ塚と呼び、又当社の境内を升塚と唱ふ、蓋し金の升埋めあるの意なり」と云ふ、社伝に云く、昔時当社地は願る広大なりしものなれば、今本杜を南に距る十町許なる太田村に、宇鳥屋跡と称する地あり、又当村の妙徳寺は、旧縣坊と唱へて本杜に奉仕せし別当なり、而して古来武將其他領主等の帰向厚く。社殿の築造神領の寄進等少なからざりしが、中世兵乱相続ざ、社頭亦其災に罹りて、幾回か兵災又は盗難に遇ひて、古文書等悉く焼失若くは散逸し、唯僅に元亀3壬申年12月、慶長13戊申年8月、延宝4内辰年正月、宝永5乙子年8月、元文5庚申年9月、天明6丙午年4月、文政3庚辰年9月在銘の棟札を蔵するのみにして、其以前は知るに由なしと云ふ、明治7年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿の二宇にして、境内坪数475坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



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