「来振」は、上野国小祝神社のように祝(ハフリ)・祝部(ハフリ)が語源であろう。 神亀2年(725)6月18日の晨曉、黄金色の雪が丸山の地に一尺許り降り、勅許を得て宮社を修営して来振と崇めて勅祭された。 もとは神霊と瑞祥が降臨された字白山の丸山(来振小峯ともいう、標高317m)の山嶺に鎭座していた。 この地一帯は良質の石灰の産地であり、開発が進んだために昭和40年4月27日、現在地に遷座した。 |
式内 来振神社 式内 来振神社 揖斐郡大野町稲富字白山2586 祭神 伊弉諾命 伊弉冉命 菊理姫命 大己貴命 白山輔佐翁 由緒 今から1276年前第45代聖武天皇神亀2年(西暦725年)6月創建にして延喜式神明帳延長5年(927年)に曰く美濃国大野郡式内来振神社美濃国神名記曰く大野郡三三社の内正二位式内来振大神とあり 原因の録を見るに聖武天皇の御代神亀2年6月18日晨暁降雪尺余り不思議の前兆ありしこと叡聞に達し勅使御下向あり神託を窺はしむるに 則諾册二尊山嶺降臨の神宣により急ぎ宮社を修め来振明神と崇め勅祭あらせられ叡慮により永世祭祀のため麓に伽藍三二坊御創建の上新福寺を来振寺と改称御勅号あり二〇〇貫の庄園を課し且つ社務のため五八石八斗の領米の寄附あり 享録3年(1530年)菱川流域災変に遵い剰へ織田氏のため社寺一時廃絶に及べり天正17年(1589年)豊臣氏朱印を以って三石五斗を寄附徳川氏慶安元年(1648年)同三石五斗を寄附幕府代々朱印有之しも旧大垣藩戸田氏延宝5年(1677年)社殿を造営以降営繕 の度幾許の金貨を寄す棟札等に存在せり 当社祭礼の際は必ず旧藩戸田氏より役員出張神輿渡河式厳粛に行はれたり其の式精しくは天明2年(1782年)来振白山権現祭礼覚記に見えたり 茲に倭漢三才図人絵にも当社の事記されかかる由緒の社格によって明治6年(1873年)1月郷社に明治40年(1907年)3月神饌幣帛料供進神社に指定さる 沿革 式内来振神社は郷土の守護神として創建以来1200有余年標高317mの白山山頂に鎮座社会の変遷に伴い御本殿移転の余儀なきに至り 白山麓の一角を霊地と定め神殿等の造営を致し昭和43年(1968年)4月27日深更遷宮式が古式にのっとり厳粛に行はれたり 平成11年神社周辺が来振ふれあい公園として造成されたのを期に神域の整備を計画致し奉賛会役員の尽力と崇敬各位の懇志にて完成せり 社頭石碑 |
来振神社 第45代聖武天皇神亀2年6月創建にして、延喜式神名帳に曰く、美濃國大野郡三座の内、来振神社。美濃國神名帳に曰く、大野郡三十二社の内来振大神とあり、抑も其の縁由を尋ぬれば、聖武天皇の御宇神亀2年6月18日晨暁雪尺余不思議の瑞兆ありしこと叡聞に達し、勅使下向あり。神託を窺はしむるに則諾册二尊霊山嶺降臨の神託により、急ぎ宮社を修め、来振明神と崇め勅祭あらせられ叡慮により永世祭祀のため麓に伽藍十二坊御創建の上、新福寺を来振寺と改称御勅号あり。長瀬更地上秋等各村の内都合永二百貫の荘園を課し且つ社務の為五十八石八斗の領米を寄付あらせらる。降りて享保3年藪川流域変更の為社地流失し、遂に川敷となり、旧社地跡形もなくなりつれど、豊臣徳川二家共に朱印地を寄進され、大垣藩戸田候世々崇敬ありき。天和2年2月吉日御神前手水鉢現当二世安全所濃州大野郡更地村住人国枝長藏敬白。 岐阜県神社庁 |
來振神社 來振は古布里と訓べし○祭伊弉冉尊(明細記)O名礼村に在す、今來振白山権現と称す、(同上) 鎮座 神亀2年6月18日鎮坐、于今祭日也(明細記) 神位 本國神名帳、正二位来振明神、 社領、 當代御朱印高三石五斗 神社覈録 |
郷社 來振神社 祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 菊理姫命 大己貴命 白山輔佐 創建は神亀2年乙丑6月にして、廷喜の制式の小社に列したる社にして、大野郡三座の一なり、即ち神名帳考証に、「来振神社、按来與木同訓、振祝乎、今云、祀振村、上野国小祝神社、木祖句々廼馳、越前國市振神社、旧事紀云、道速振」と見え神社覈録に、察神伊弊冉尊(明細記)、名礼村に在す、今来振白山権現と称す(同上)、鎮座、神亀2年6月18日鎮座、于今祭日也、本国神名帳、正二位来振明神、社領、当代御朱印高三石五斗」とあり、美濃国式社考に曰く、来振神社、在大野郡来振村、去江渡駅北三里許、神名未考と云へり、(新撰美濃志神祇志料)来振寺は、真言宗新義にて宝雲山明星院と称し、白山の社僧なりと云へり、木振近年稲富と改め、今又上秋と合せ富秋村と改む、長瀬の南にして糸貫川の畔とす、糸貫の一支西南に流れて薮川と為るもの、此地にて分派す、当国神名帳に、正二位来振明神、正五位上来振明神、正六位上来振比子明神など云ふにあたる、社伝によれば、聖武天皇神亀2年6月18日晨暁降雪尺許り満岳白山に変す、不思議の瑞叡聞に達す、乃ち勅使下向して神託を窺ふ、則諾冉二尊山嶺に降臨の旨神託あり、依つて急ぎ宮社を創建し来振神社と崇め奉りて勅祭あらせられ、且神威御崇敬の叡慮よりして永世察祀のため、山麓に伽藍并に社坊を造営し、新福寺(此寺は元正天皇霊亀元年僧行基の開基にて法相宗)の称を改て来振寺と勅裁あらせらる(此寺後に新義派真宗となる)且勅命に依り、京郁松橋極樂院僧正成運をして転住奉仕せしめ、尚社殿及び寺宇の営繕料として、長瀬村の内二十二貫、更地村の内五十八賃、東上秋村の内柳一色にて百二十貫、合せて永二百貫の庄園を課し、また社務費として五十八石八斗を寄進せらる、然るに享保3年藪川氾濫のため、地面流失の厄に遇ひ、次いで織田信長の為に社寺共に一時廃絶に垂んとす、然るを豊臣氏の世に至り、朱印を以て三石五斗を寄附し、続いで徳川氏も亦、先規に依り三石五斗の朱印地を寄進す、されど逐年藪川水流のために侵蝕陥没せられて、殆んと有名無実となる、是を以て幕府屡朱印を改調す、又大垣藩主(戸田氏)代々崇敬厚くして、修築の際は、必ず若干の費を献ぜらるるを恒例とせらる、のみならず、祭典毎に吏員を出して、神輿の渡御を警衛す、而して本社祭典式事の荘重にして且殷盛なることは、實に当國稀に見る所にして、委しくは天明2寅年来振白山権現祭礼覚記に見えたりと云ふ、今其一斑を云へば、当日は山車三輌を出し、其雛子の賑かなること耳も聾せん許りながら、其曲調の甚だ古雅なる、聞く者をして坐ろに懐古の戚あらしむ、惜裁天保凶教以来遂に之を廃するに至れりと云ふ、明治6年1月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿の二宇を具備し、境内坪数7359坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |