花長神社と夫婦神とされるが、祭神は良くわからない。田地に岬状に突き出た山地の裾にあり。集落より1Km離れている。境内は天然記念物ヒメハルゼミの生息地。 当社祭神が男神で、花長上神社の祭神は姫神とされている。 |
ヒメハルゼミ 天然記念物 ヒメハルゼミ(谷汲村名礼) 昭和13年に谷汲村名礼在住の平井賢吾さんが当花長神社境内で発見し、国の天然記念物の指定を受けた日本でも一・二ヶ所にのみ生息するという珍しいセミです。体長30mm、細長く小さなセミで、一見アブに似ており一匹では鳴かず六十匹から百匹で合唱するのが特徴で別名ツレセミとも言われています。また、このセミはかしの木の根を伝い土中2m位のところに幼虫として6年間を過ごし、7年目に地上に成虫として姿を現わし、かしの葉の裏にとまり保護色を利用して外敵から身を守り、一週間の生命を燃やすのです。なぜかこの神社の境内しか生息せずその理由は未だ不明です。 谷汲村商工会 社頭掲示板 |
花長下神社 創建年月不詳花長上神社より南十二町余も距る桐之輪の奥の地に鎮座あり 社号は下鼻長大明神と元■皇記に見えたり 又鳶岩村藩神社調書に下花長大明神社額に鼻長大明神と掲けり(但 享保年間額)故延喜式神名帳曰 美濃國大野郡三座之内花長下神社故れ里傳の因る所を探るに花長上下両社は御夫婦の神なり故に舊例祭は隔年に之を行と云う 此傳真に實を得たりと云うべしそは出雲風土記を案するに天甕津日女命の夫神は赤衾伊農意保須美比古佐和気能命也 既に天甕津日女命上の花鹿山の花長神の祭神たれば必すやこの下の花長はその夫神たらずして何ぞや尓りと も別に確とす可きなし 故れこの本村の旧号たるや正親村なり 正親町天皇の謚号を避けて名禮村と改号せりと云ふ しかれば正親村は意保幾村にして意保幾は伊農意保須美比古佐和気能命の意保須美の切なり 且つ轉りたるものか 夫れ須美の切Hさ志なり志の横道幾なれば意保志を意保幾と通はせるは常ある例なれば本村名は實は祭神意保須美比古佐和気能命より出たるものなれば茲に当社は明治6年1月縣命によりて郷社の格に額めて崇奉せり 岐阜県神社庁 |
花長下神社 花長は前に同じ、下は志毛と訓べし、〇祭神詳ならず○名礼村に在す(明細記) 神社覈録 |
郷社 花長下神社 祭神 不詳 創建年代詳ならす、祭神は一説に赤衾伊農意保須美比古佐和気能命なりと、当社も亦式内社たり、神名帳考証に、「花長下神社、木霊、天彌加都姫命、正妃訓牟加比女、風土記多具國者、日本紀(仲哀)云、有向津國、是謂拷衾新羅国、新羅在吾国西北隅、造物功終即始之地也」と見え、神社覈録には「祭神詳ならず、名礼村に在す」とあり、神祇志料には「今名礼村にあり、花長明神と云ふ」と見えたり、新撰美濃志に、『名礼村は木曾屋の東南にあり、御料七百三十七石九斗六升六合、七社大明神社は村内にありて、猿田彦大神を祭れり、延喜式神名帳に大野郡花長神社と見え、美濃神名紀に正一位花長大神と志るしたるは此社なり」とあれども、その上社を指せるものか、或は当社のことを云ひだるものか今定かならすと雖も、神社覈録は上社とせり、尚考ふべし、社伝に花長上下両社のこと、花長上社のそれに同じ、出雲風土記を案ずるに、天甕津日女命の夫神は赤衾伊農意保須美比古佐和気命なりとあるを見れば、上の神社は婦神に坐まして、此の社の神は夫神に坐ますこと明らかなり、而して其花長上神社と称するは、本社を距ること十二町余の北にあり、明治6年1月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿を備へ、撹内坪数1589坪(官有地第一種}を有す。 明治神社誌料 |