花長上神社
はなながかみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】花長神社 美濃国 大野郡鎮座

   【現社名】花長上神社
   【住所】岐阜県揖斐郡斐川町谷汲名礼 1211-1
       北緯35度31分33秒,東経136度35分40秒
   【祭神】天甕津日女命 応神天皇 速玉男命 天照大御神
       大山祇神 高おかみ神 熊野久須美命 豊受大神 家津御子神 天水分神

   【例祭】9月7日
   【社格】旧郷社
   【由緒】垂仁天皇御世、建岡君に勅して創祀
       神護景雲元年(7657)神封一戸
       明治12年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「七社大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造銅葺
       社務所・拝殿・渡殿

   【境内社】八幡神社・貴布禰神社・熊野神社・神明神社
        御鍬神社・北野神社・雨乞神社・山神神社


上神社は女神、下神社は男神といわれている。9月7日の祭礼は、花長下神社と花長上神社が交互に行なっている。
大野郡の地は古くはオホの国と呼ばれており、オホの国を開拓した祖神と白山信仰を母胎としたものと思われる。
愛知県一宮市にある阿豆良神社(尾張国丹羽郡式内社の阿豆良神社)とは密接な関係がある。祭神は同じ天甕津日女命(天甕津媛命)である。


『尾張国風土記』

吾縵(あづら)の郷の條
 丹羽の郡。吾縵の郷。巻向の珠城の宮に天の下をお治めになった天皇(垂仁天皇)のみ世、品津別の皇子は、生まれて七歳になっても口をきいて語ることができなかった。ひろく群臣に問われたけれども、誰一人よい意見を申し上げるものがいなかった。その後、皇后の夢に神があってお告げをくだし給い、「私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女というのだ。私はまだ祭ってくれる祝をもっていない。もし私のために祭る人を宛てがってくれるならば、皇子はよく物を言い、また御寿命も長くなるようになる。」といった。帝は、この神が誰で、どこにいるのかを探しだすべき人を占わせると、日置部らの祖建岡君がその占いに合った。そこで神をたずねさせた。その時建岡君は美濃の国の花鹿の山に到り、榊の枝を折とって縵に造り、祈誓して「私のこの縵が落ちるところに必ずこの神がいらっしゃるだろう」といったところが、縵はとび去ってここに落ちた。そこで神がここにおいでになると知って社を建てた。この社名によって里に名づけた。後の人は訛って阿豆良の里という。
 「美濃の国の花鹿の山」とは当地のことであり、ここには既に阿麻乃弥加都比女が祭られていたと云うことである。

尾張国風土記



花長上神社

創建年月不詳古くは上鼻長大明神と云ひ近くは七社明神と云ふ 延喜式神明帳曰 美濃國大野郡三座の内花長神社 美濃國神名記曰 大野郡三十二社の内正一位花長大神里伝曰上花長下花長の両神社は御夫婦なるが故神祭隔年なりといへり 七社神社とは祭神七柱在て何れも古雅ゑるものなれば唯祭神の数によって後人称号せるものとみRたり 茲に当社の原因を索ぬるに釋日本紀曰尾張風土記中巻曰丹羽郡吾縵郷巻向珠城宮御宇天皇品津別皇子七歳而不語傍同郡下無能言之乃後皇后夢有神告曰吾多具國之神名曰阿麻乃弥加都曰女吾未得祝若為我充祝人皇子能言亦是壱考帝卜人■神社者日置部等祖建岡君と食即遣■神時建岡君到美濃國花鹿山擧賢樹枝造縵誓曰吾縵落花處必有此神縵曰落花此間乃識有神因堅社由社名里後人訛言阿豆良里也(尾張國丹羽郡吾縵村式内阿豆良神社有祭神天甕津日女神と言小説あり)抑当社の形境たるや後には叢々たる賢樹の大樹多く前にはうつうつたる杉の森立せるあり 亦山腹に舜屹立せる大巌あり 之を神樂岩と称すこは是中古迄此の巌傍において神楽を奏せり而して亦た一箇の磐石ありこを神輿岩というこれにて御輿を駐御せしと云ふ 加之東南御大町を隔て祢宜街道あり又中林寺の東に当て中街道あり 是皆往古当社に就ての形迹也實に盛大の迹今猶感古の想を起さしむ尓り 而して鎮座の山を中山という こは往古花鹿山とありし発語の畧なり 故れかかる昭々の明徴ある上は社号の花長確に波那迦と称す可きこと無論のことなるを古来謬に誤を傳て花長を鼻長とし祭神猿田毘古大神と附合せるは太しき誣説という可 而して天甕津日女命の本縁たるや出雲風土記仮字書曰く 秋鹿郡伊農郷家正西一十四里二百歩出雲郡のイヌの里にいます 赤衾伊農意保須美比古佐和気能命後天甕津日女命國巡りしましし時ここにいたりまして詔はく伊農ハャと詔給ひきかれ伊努という神亀3年字を伊農とあらたむとあり(同郡伊努社あり伊努社は古史傳に天甕津日女命也称伊努郷客大神)就中徴效の炳然たる者は木村住人平氏平野代助が家系の日記に此花長神の神験ありしよしを記せり 某家系曰 六孫王■ャ經八代苗裔平野三郎頼茂十四代末孫三郎政勝仕豊臣秀吉公文禄3年癸巳2月卒葬於丸山政勝之男平野孫兵衛政吉(母者高橋氏某女)属稲葉伊豫守之幕下慶長3年憂病而退隠於名禮村也病漸愈而後妄毀於一郷惣社七社明神宮社而奉遷宮於西之洞塔尾而社地境内之迹新構居宅住之也因茲受明神之崇俄失正気言語不通甚能乱也妻子春族驚恐而速毀新宅明神社如先規建立之奉遷於神霊社地境内地続之山林多奉寄付之贖其罪而数月日夜奉祈祷於宥赦之矣也然而後雖正気漸復言語不通竟不語之病不愈而慶長8年癸卯正月朔日卒矣也齢51歳葬於丸山噫乎夫れ本社草創之本縁は折に由て品津別皇子言語不通の唾病を癒し横道によって平野氏が言語を啜の古今不易幸福言語に仍て賞責を現し賜しこと是併て祭神天甕津媛命の本縁たる者也夫れ尓り尓る上は祭神七柱たりと■も而も主神たる者は必然天甕津媛命に更に疑を容る可からさるもの也かかる由緒の社格たるを以て明治12年6月20日縣命を得て郷社の格に加列して奉崇せり

岐阜県神社庁



花長神社

花長は波奈賀と訓べし〇祭神猿田彦大神(明細記)○名礼村に在す、今七社大明神と称す、(道場)
尾張國風土記云、日置部等祖建岡君、到美濃國、花鹿山挙賢樹枝云云、
神位、
本国神名帳、正一位花長大神

神社覈録



郷社 花長上神社

祭神 不詳
創建年代詳ならず、社伝によれば、祭神は天甕津日女命なりと、古来鼻長明神或は七社大明神と呼び、即ち式の大野郡三座の一なり、神祇志料に、「花長神社、天彌加都姫命歟、阿遅須枳高日子命の后神に坐り、垂仁天皇御世、建岡君に勅して此神を覚しむる時、美濃花鹿山に至り、蔓を造て神に誓ふ即是也、称徳天皇神護景雲元年神封一戸を充奉る」と見ゆ、神名帳考証に、「見尾張風土記、古事記曰、本牟智和気御子、一宿婚肥長比売、同云、比々羅木之其花麻豆美神、同云、大山津見神女木花之佐久夜毘売、姉石長比売、尾張風土記云、日置部等祖建岡君、到美濃図花鹿山挙宝樹枝云々」とあるに合す、一説に祭神猿田彦大神、名礼村に在す、(新撰美濃志神社覈録)美濃神名記に正一位花長大神とあるは此社なり、社記に云く、上花長下花長の両神社は御夫婦の御神なるが故に、祭典の如きも隔年之を行ふ、七社明神とは、祭神七柱坐ますが故に、古来民俗の素模なる。唯祭神の数に因りて然か称せしものにして、神徳の顕著なるは、往古巻向球城宮御宇品津別皇子生れて七歳、語る能はず、皇后夢に神告を得て之を本社に祈りて験あり、其後本村の住人平野孫兵衡政吉初め伊豫守の幕府に任へ、慶長3年病を得て名礼村に退隠し、病漸く癒えたる後、妄りに社宇を毀ち、其跡に第宅を構ふ、忽ち神罰を得て言ふ能はざるのみならず、精神頗る錯乱す家人大に恐れ、直ちに屋を払ひ、社字を新築して罪を謝す、是に於て政吉の病頓に癒ゆ、其他此の如き類枚挙に遑あらずと云ふ、明治12年6月12日郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿の二宇を具へ、境内坪数1231坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



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