八幡神社
はちまんじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】荒方神社 美濃国 安八郡鎮座

   【現社名】八幡神社
   【住所】岐阜県大垣市墨俣町墨俣1番地
       北緯35度21分58秒、東経136度40分56秒
   【祭神】応神天皇
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】和邇氏
   【鎮座地】墨俣の北の堤外地にあった
        後世現地に遷

   【祭祀対象】本来は氏祖
   【祭祀】江戸時代は「八幡神社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       祝詞殿・拝殿・手水舎

   【境内社】

墨俣の北の堤外地を荒方と言い、荒地であつたが要地として生活圏を開いたと見てよい。荒方神社はこの地域に鎭座し、郡境と治水の焦点として荒地に立ち、その地名が社名になつたものと思われる。
この地を開拓した和邇氏は墨俣町北部を拠点とし、荒方神社を祖神として奉祀し、社名が地名になつて行つたものと推察できる。
中世からはその由緒が忘失され、祭神・所在も転変して行つたようである。
元々の位置は現在地の北(犀川河川敷)であり、本巣郡と安八郡の境に存在したという。


正八幡宮由来

この八幡宮は延喜式美濃神名帳に記され初め従一位荒方明神でありましたが、後八幡神社と改められ、祭神は応神天皇と謂われております。古来当社の少し南に鎌倉街道あり美濃路は大鳥居の前を通り東国、西国通行の要衝の地でありました。
従って中世代より源家の武将や織豊戦国時代の武人が武運や領国の鎮護  の為しばしば参詣に訪れた記録があり
土佐24万石の領主松平土佐守山内一豊の臣(秀吉の家臣で墨俣城主であった)・・・・は殊に信仰が篤かったと伝えられている。
明治維新前は毎年8月15日が祭礼日であったが現在は10月10日に改められた。(以下判読不明)

社頭掲示板



八幡宮

創立年紀不詳なりと雖、從一位荒方大明神に充て得らる著名な古社なりと云、社號も亦荒方八幡宮と称す。

明細帳



八幡神社

創立年紀不詳なりと雖も、延喜式神名帳所載安八郡四座の一、荒方神社。美濃國神名帳所載安八郡十九座の一、従一位荒方明神に充て得らるる著名の古社なりと云ふ。社号も亦荒方八幡宮と称す。当社古額面に八幡宮其の肩書に荒肩神社とあり。鎌倉時代の古物なる事鑑定せらる。亦天保3年4月、同5年の棟札に荒方八幡神社と記し、又神祇伯より当社神主大江豊前時房へ宛てたる継目相続許可書安政2年2月21日の神葬祭式次第授与書。安政4年2月の宗門改免除書。嘉永2年西町出火記等何れも荒方神社八幡宮神主とあり。式内荒方神社は当社なりとす。当社に現存せる安政2年、天明7年、天保10年、嘉永4年の旧記あり。天明7年5月25日松平土佐守御家老泰■髴をして初穂料を奉献代参祈願せしめられ、嘉永4年高須藩主毎月二度ツ■五穀成就の御祈願あり。天明5年8月15日、同7年8月15日、岐阜町奉行黒田六一郎同役人勝田定兵衛、伊藤丈ェ門等祭礼に際し当社に参拝し、山車芸の検分あり。明治24年11月10日小松宮彰仁親王殿下参拝せられ、本殿階下に御手自ら松を植えさせられ、今尚青々繁栄せり。文化2年濃陽村々明細記墨俣村の條に左の記録あり。一、正八幡宮 社三尺五寸三尺五寸 拝殿二間三間 鳥居一丈八尺一丈二尺境内御除地。

岐阜県神社庁



荒方神社

荒方は阿良加多と訓べし○祭神詳ならず○赤坂宿に在す、(信友云)、 神位 本國神名帳、從一位荒方明神

神社覈録



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