墨俣神社
すのまたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】墨俣神社 美濃国 安八郡鎮座

   【現社名】墨俣神社
   【住所】岐阜県大垣市墨俣町墨俣264番地
       北緯35度21分50秒,東経136度41分2秒
   【祭神】墨俣大神
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代は不詳
       享保20年9月造営
       明治6年1月郷社
       明治24年濃尾大震災で社殿悉く倒潰
       昭和10年犀川開盤工事のため移転

   【関係氏族】
   【鎮座地】墨俣南東の小字東寺南に鎮座した
        昭和10年犀川開盤工事のため移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「墨俣大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・祝詞殿・手水舎・社務所

   【境内社】
   【神宮寺】明台寺(浄土宗西山禅林寺派禅林寺、興教大師上宿に創建
         明応年間大字墨俣字寺町に再建。)を旦那寺とする


墨俣地区は彌生後期から平安申期にかけて開拓されており、その早い時期に鎭座されたと思われる。
1717年(享保2年)、南宮大社の調査で延喜式神名帳の墨俣神社であることが判明


墨俣神社

創立年紀不詳なりと雖も、延喜式内社にして延喜式神名帳に従五位下墨俣明神とある古社なり。大日本史神祇志に「安八郡四座の内墨俣神社今在墨俣駅神名記為従五位下」神名帳考証に「安八郡墨俣神社洲俣川大已貴命各務郡眞墨田神社玉葉云養和元年3月13日伝聞去十日欲渡墨俣之間尾張賊越来」美濃式社考に「墨俣神社在安八郡墨俣村去大垣の駅を東二里許り神名未考」美濃明細記、百岐年に「安八郡墨俣宿正一位墨俣大明神近代正一位墨俣渡場之西神名式曰墨俣神社、美濃神名記墨俣明神」明細記に「延喜式墨俣神社安八郡四座の一、美濃神名記従五位下墨俣明神安八郡十九座の一近年正一位」大日本地名辞書に「此の神は延喜式安八郡の官社にて当國神名帳に従五位下と標したり」享保20年の棟札に正一位墨俣大明神とありて、里人社名を云はず、正一位さん正一位さんと称し奉る。享保20年9月の棟札に依りて、尾張藩主源宗春公、成瀬隼人正、竹腰志摩守、備前藩中伊木清平衛尉等の信仰せしを知るべく。安政元年伊木清兵衛尉金一千疋を献りし由古文書に見ゆ。文化2年濃陽村々明細記墨俣村の條に「正一位墨俣大明神 社五尺五寸六尺 拝殿二間三間 境内御除地とあり。明治24年の濃尾大震災に社殿悉く倒潰せしを以て仮殿を営みしも昭和10年犀川開鑿工事の為移転を命ぜられ同年1月21日許可現在の地に移転。祝詞殿、拝殿、手水舎等新築完備し、昭和13年7月1日完了届け出をなす。

社頭掲示板



墨俣神社

住所 墨俣町墨俣264番地
墨俣大明神、
境内にある神社
秋葉神社 祭神 軻遇槌神
御鍬神社 祭神 豊受大神
神明神社 祭神 天照大神
稲荷神社 祭神 倉稲魂神
沿革
墨俣神社は延喜式内社で、美濃神名帳に従五位下墨俣明神とあって昔は墨俣川(長良川)の渡船場南西にあづたが、昭和8年、犀川大改修により、現在地に移転を余儀なくされた。 
明治6年1月式内郷社
明治40年3月27日
神餞幣帛料供進社に指定せらる。

社頭掲示板



常夜灯台座の由来

(俗称ゴトウサン)
この常夜燈の台座は、墨俣神社に五穀豊穣と、旅の往来安全を祈念した、多数の信仰者の寄進により建立されました。寄進者名は台座最上段の側面に刻名されています。
渡船場は僑の上流300mあたりにありました。
墨俣神社の氏子中には、船頭が二十人以上おり、長良川を利用した物流の便をはかったため、これらの安全祈願を考慮し、墨俣神社と渡船場の間にあった湊番所の横に建立されました。
文化12年(1815年)頃に完成しましたが明治24年(1891年)の濃尾震災により火袋、棹部を残念ながら破壊され台座のみとなりその後、道路エ事の都合で、墨俣神社大烏居の横に移されました。
さらに昭和8年(1933年)に、新犀川開削工事のだめ、墨俣神社とともに、この場所に移転されました。

社頭掲示板



墨俣神社

墨俣は須乃麻多と訓べし○祭神詳ならず○墨俣村に在す
明細記曰、或曰、墨俣は新地也、上宿下宿古代の洲俣宿也、此村中の社歟、未詳、」按るに駅地かはりたれば神社も共に移すべし、
神位
本國神名帳、從五位下墨俣明神、

神社覈録



郷社 墨俣神社

祭神 不詳
創建年代詳ならずと雖も、延喜式内の小社なり、神名帳考証に、墨俣神社、洲俣川、大己貴命、各務郡真墨田神杜、玉葉云、養和元年3月13日癸丑、傳聞、去10日欲渡墨俣之間、尾張賊越来」と見え、美濃式社考に、「墨俣神社、在安八郡墨俣村去大垣駅東二里許、神名未考」とあり、一に墨俣大明神と云ひ、從五位下に叙せらる(美濃式社考証、美濃明細記)保暦間記に、墨俣大明神社は渡場の西にありて延喜神名式に安八郡墨俣神社と志るし、又美濃神名記に、近年正一位を授かり給ふといふ、むかしの墨俣宿は今の上宿村下宿村等にて、ここは古神にあらす、新地なりといへども、此あたり広く墨俣の地なれば社號をかく称しつるなるべし」と、本社が式内墨俣神社なるに就ては各書とも異説あるを聞かず、墨俣に木下藤吉郎が計策として城か俄に取立てて、美濃入の要害と為ししこと、織田記、太閤記に見ゆ、今も村内に此故跡を伝へたり、城の戸城の腰殿町などを字とすと見えたり、されど、往古の沿革は今知るに由なく、享保20年9月26日の棟札によりて、旧尾張国主参議源宗春卿及び備前國岡山城主池田内藏頭の藩中伊木清兵衛等の崇信せしを知るべく、又安政元年右伊木清兵衡并に若狭三代の帰國に際し、神餞料一千足を献りし由記せる古文書に依りて、其頃に尊崇せられし一斑を知るべし、明治6年郷社に列せらる、同24年10月28日大震災に遇ひ、社殿悉く倒潰せるを以て、仮に社殿を営めるも、爾來神職及び氏子等は之が再興に務め、今や其計画半ば成ると云ふ。
境内坪数589坪(官有地第一種)の外、社有財産として耕地若干を有す。

明治神社誌料



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