「伊福部」の本来の職掌は、吹子によるタタラ炉の操作にあり、製鉄技術者を部民として管掌する氏族であった。南宮大社を中心とする美濃国の鉄生産は、勝氏ら帰化系技術者を含む製鉄集団によって行われ、彼らは尾張氏の族である伊福部氏の管掌するところであった。 |
伊富岐神社 伊富岐神社 古代伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏の祖神をまつってあり、この神社付近には石器時代の遺跡や山頂古墳も多く、古代の豪族が住んでいたことも明らかです。この神社は古来より美濃の二の宮として崇敬されており、岐阜県指定の天然記念物の杉の古木があります。 伊富岐神社 大杉 この大杉は根元の周囲約9.6m 目通り約6.6m 高さ約30mで、地上五mあたりから四本の幹に分かれている。枝張りは東西約10.5m 南北約16mで、樹勢も好く県下で稀な大木である。 いい伝えによると関ケ原の戦いの時、社殿は兵火にかかったが、御神体は幹の分れたところに安置してあったので安泰であったという。古来より御神木として仰がれている。 垂井町教育委員会 伊富岐神社 棟札 経塚出土品 古絵図 棟札は寛永13年(1636)に造営されたときのもので、二枚が保存されている。 経塚から出土品は大正15年(1926)に本殿を改築したとき出土したもので、経筒ほか13点があり鎌倉時代初期のものといわれている。 古絵図は縦105.3cm 横77cmの紙本著本のもので、いつの頃のものかわからないが、境内及び付近の様子が画がかれていて貴重な資料である。 垂井町指定有形文化財(典籍) 伊富岐神社棟礼 `昭和35年8月17日指定 伊富岐神社は、『文徳天皇実録』、仁寿2年(853)の項に「美濃国伊富岐神」の名が見え、美濃の二ノ宮として古い神社である。 慶長5年(1600)の関ケ原合戦で、社殿が兵火にかかり焼失したといわれている。 伊富岐神社の棟礼には、慶長11年(1606)のものと、寛永13年(1636)のものがあり、合戦後まもなく社殿が再興されたことを物語っている。 平成21年1月 垂井町教育委員会 社頭掲示板 |
伊富岐神社 当社の古き由緒創建年紀等は不詳に属すれども、此の付近一帯往古は瓊々杵尊の御兄天火明命の子孫伊福氏の本貫なれば同氏等が氏神として創祀せるなるべし。由緒として史籍に見えたるものには、文徳天皇実録に仁壽2年12月美濃國伊冨岐神を以て官社に列すとあり。三代実録には清和天皇の貞観7年5月18日従五位下伊冨岐神に従四位下を授く。陽成天皇の元暦元年2月21日従四位下伊冨岐神に従四位上を授くと見え、延喜式神明帳には美濃國三座の内とあり。美濃神名帳には正一位伊冨岐と見え、その他康和5年神祇官奏状同中臣氏祭文本朝神社考平家物語神社啓蒙美濃國雑事記美濃明細記藤河日記等にも当社のこと見えたり。一千余年前既に官社に列せられ、中間史料を免れしたれども、年次を追って授位せられ、現在は正一位を以て傳ふる古社なり。明治6年郷社に列せられ、大正7年縣社に昇格せらる。昭和27年1月16日稲荷神社を合併承認。 岐阜県神社庁 |
伊富岐神社 伊富岐は假字也○祭神葺不合尊(明細記)○伊吹村に在す、(同上) 神位 官社 文徳實録、仁壽2年12月癸亥、以美濃國伊富岐神列於官社、三代實録、貞観7年5月8日戊子、授美濃國從五位下伊富岐神從四位下、元慶元年閏2月21日癸巳、授美濃國從四位下伊富岐神從四位上、 雑事 朝野群載六云、康和5年6月10日、奏亀卜御体御卜、坐美濃國伊富岐神、云云、社司等、依過穢神事崇給、遣使科中祓可令祓清奉仕事、宮主從五位下行少祐卜部宿爾兼良、中臣從五位上行権少副大中臣朝臣輔清 神社覈録 |
郷社 伊富岐神社 祭神 多々美比古命 配祀 御子明神 不詳二柱社 創建年代詳ならず、神名帳考証に云く、伊富岐神社、天之吹男神、今云伊吹、古事記云、天之吹男命、仁壽2年12月癸亥。以美濃国伊富岐神列於官社(文徳實録、三代實録曰、清和天皇貞観7年夏5月戊子、授美濃国從五位下伊富岐神從四位下、又曰、陽成天皇元慶元年春閏2月癸巳、授美濃国從四位下伊富岐神從四位上、美濃国式社考に云く、「伊富岐神社、在不破郡伊吹村、去垂井駅一里許、今称伊吹大明神、神祇志料に云く、「伊富岐神社、今伊吹村伊吹嶽にあり、伊吹大明神と云ふ、蓋霜速比古命の子多々美比古命亦名伊吹雄命を祀る、文穏天皇仁壽2年12月癸亥官社に預り、清和天皇貞観7年5月戊子、從五位下より從四位上に進め、陽成天皇元慶元年閏2月癸巳從四位上を授け、掘河天皇康和5年、6月御トに伊富岐神の神事を穢せるを以て、社司に中祓を科せしめき、凡其祭3月6日を用ふ」とあり(朝野群載神社覈録)新撰美濃志に『伊富貴大明神社は村北の山の上にありて老樹生茂れり、祭神は鶴鵬草葺不合尊にて、野上伊吹両村の生土神とす云々、もと神領もありしにや、濃陽志略に、里老曰古為大祠有借房十二且社産若干、中頃値乱世寺院頽廃、社産皆没、只存一叢祠としるせり」 と見ゆ、困にト部兼邦の神道百首に、「またこんといぶきの山の神ならばさしも契りしことなわすれモ」と詠みたるもかしこし、地名辞書に、 「伊吹、野上の北数町相川を隔てたり、菩提山の山脚なる一聚落とす、此に伊吹神社ありて、野上の民も之を氏神とす、蓋古姓氏に尾治(尾張に同じ)伊福部(五百木部、蘆城部にも作る)ありて、実に同族とす、野上行宮の邸主を尾治氏とし、此に伊福神の存在するを見れぱ、尾治伊福部二氏の祭れる者たること明瞭也、然るに之を伊福部神と号せずして、伊吹神と云へるは、此邊に鎮めの大嵩なる伊吹山に呼び通はせて伊吹とのみ呼べる歟、伊福部とは本来吹部にて、吹笛を世職とせる部族名より出でしとも想はるれば、伊吹山と相干渉せず、不審。」 と云ヘり、社伝によれば、現今の本殿は長十一丙午年3月の再興に係るといふ、明治6年1月郷社に列せらる 明治神社誌料 |