大領神社
だいりょうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大領神社 美濃国 不破郡鎮座

   【現社名】大領神社
   【住所】岐阜県不破郡垂井町宮代765番地
       北緯35度21分34秒,東経136度31分49秒
   【祭神】不破郡大領宮勝木實 (配祀)伊邪那美尊 速玉之男神 泉津事解之男神
   【例祭】10月2日 例大祭
   【社格】旧郷社 美濃国二宮
   【由緒】霊亀元年(715)木実卒し、後祭霊を祀る
       明治4年11月郷社
       同10年3月南宮神社の摂社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】宮勝木實命
   【祭祀】江戸時代は「宮勝霊神社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】

実在の人物が祭神でかつ式内社であると言う珍しい神社である。
不破郡大領宮勝木実は壬申乱の際、天武天皇(大海人皇子)の勅命を蒙り、仲山金山彦神社に「代官大夫」として戦勝祈願の奉幣を行い、また村国男依の指揮下で十七人の勇將を牽いて不破関を守り近江軍の兵を破つた。
また、乱後に創立された不破郡の初代の大領として治績をのこした。


大領神社

大領神社御由緒
祭神 不破大領 宮勝木實命
相殿脇神 熊野三神 歩射祭
例祭 1月15日
10月2日
今を去る千参百年前天武天皇の壬申の乱に古来南宮大神に仕える宮勝木實命は天皇を己が館に迎え奉り直ちに一族を率いて不破の要衝を塞ぎ勝利の緒を開かれたと伝えられる。
乱平定の後その功に依り不破郡を拝領 長官たる大領に任ぜられ更に大宝2年持統太上天皇御巡幸を迎え外従五位下の破格の恩賞に浴せられた。
郷土の祖先等はその偉績を仰ぎ縁深きこの地に大領神社を創建してその厚き崇敬に依り御神威益々顕揚され美濃守の年頭巡拝には南宮大社に次いで美濃國二宮と仰がれ亦國幣に預かる官社に列され延喜式神名帳に載せられたる所謂式内社として御社名は広く世に知られるに至った。
中世数百年に及ぶ動乱の時流にも郷土の氏神としてよくこれを護持し来った処慶長5年関ヶ原合戦の兵火にかかって南宮社は炎上し時の祀職不破行治が寛永年間徳川幕府の直営普請に依ってこれを再建する時当社の本殿も共に造営、更に南宮社の仮殿を移建して拝殿にあて神徳の昂揚社領の尊厳に盡きるところ洵に多大であった。
近世徳川時代を通じ氏子等父祖相承けて年々の祭儀を厳修し盛んに太鼓踊煙火奉納に精励し社頭神□によって勤め来る処明治4年には19ヶ村の郷社に定められ10 年内務省より南宮神社の摂社に列せらる。大正8年社務所を建築、今般の大戦後は宗教法人として護持されるに至った。
近時拝殿の老巧化著しけ為に氏子の総意を以て改築を議し併せ諸所の修復を行い、この程竣工するに至った仍って茲に御遷宮を記念し謹みて深き御由緒を碑に誌し末永く後代にこれを伝え残すかたわら御神徳の弥栄を祈り奉る。
于時 昭和55年12月吉日

社頭石碑



大領神社

霊亀年間の創祀。祭神は天武天皇壬申の乱に功ありし臣不破大領宮勝木實の霊を祀り、中古熊野三神を合祀せり。又祭神は宮氏勝氏の祖神とす。明治10年3月南宮神社の摂社に定めらる。

岐阜県神社庁



大領神社

大領ば音読也○祭神荒木田臣勝好霊、後合祭熊野権現三座、○明細紀云、宮代村京方大森に在す、
神位
本國神名帳、從一位大領大神、
雑事
朝野群載六云、康和5年6月10日、奏亀卜御体御卜、坐美濃國大領神云云、社司等、依過穢神事崇給、遣使科中祓可令祓清奉仕事、宮主從五位下行少祐卜部宿禰兼良、中臣從五位上行権少副大中臣朝臣輔清、

神社覈録



郷社 大領神社

祭神
不破大領宮勝木實神
伊邪那岐命 速玉之男命 泉津事解之男神
創建は元正天皇の霊亀年間なりと云ふ、延喜式神名帳所載、当郡三座の一にして、本國神名帳に從一位大領大神とあり、続日本紀に、「不破郡大領宮勝木実、今云大龍、同云、大宝2年11月庚辰、行至美濃國、授不破郡大領宮勝木實外從五位下、旧事記に、「日本武尊稚武王、宮道君祖」と見え、美濃國式社考に云く、「在不破郡宮代村南林中、去垂井駅南九町許、今称大領大神、神社覈録に云く、「大領は音読也、祭神荒木田臣勝好霊、後合祭熊野権現三座、云々、」神祇志料に、「今宮代村南宮山の麓にあり、大領大神と云ひ、又宮勝霊神社(或いは氏神)とも云ふ、即南宮所摂の神也、蓋不破大領、宮勝の祖神を祀る、按ずるに、新撰姓氏録に、不破勝は百済國人淳武止の後とみえ、上勝また勝など云ふ姓あり、並百済國多利須々の後と云り、之に拠るに、美濃不破郡に居る者を不破勝といひ、各務郡に居る者を各務勝といへるにて、宮勝蓋又其同族也、続日本紀大宝2年、不破郡大領宮勝木実、東大寺正倉院文書に、各務郡少領各務勝小牧、三代實録貞観8年、各務郡大領、各務吉雄、厚見郡大領、各務吉宗、などあるを思ふに、其祖多利須々を祭て、大領神と云るにやあらむ、姑く附て考に備ふ、堀河天皇康和5年6月、御トに大領神の祭を穢せる崇あるを以て、使を遣して社司に中祓を科す、即是也、凡毎年正月8月18日祭を行ふと見ゆ」(美濃国明細記、神社覈録、朝野群載、)特選神名牒に云く「今按するに、此宮勝木實は壬申の役に功ありしこと、正史には曾て見えざれども、文武天皇大宝2年冬10月甲辰、太上天皇(持続天皇にませり)云々、庚辰行至美濃国授不破郡大領宮勝木實外從五位下、云々とみえ、美濃明細記に、不破郡宮代村大領大神、天武天皇行幸の時功臣不破大領荒木田臣勝好霊神とある荒木田臣勝好は宮勝木實をあやまり伝へたるものにて、土人の口碑の如く壬申に功ありし人なるを以て、金山彦神社の社司不破氏の祖神として祭れるものなるべしか、」とあり、新撰美濃志に云く、「大領神社は村の東の方の大森にありて、今は熊野権現、伊弊冉尊、速玉男命、事解男命の三神を祭るといふ云々、」と、明治4年正月郷社に列せられ、同10年3月國幣中社南宮神社の摂社に定めらる。
社殿は本殿、拝殿、幣殿等を具備し、境内坪数2118坪(官有地第一種)を有せしが、明治32年其内20坪を里道敷地に組換へらる、本社南宮神社より三丁の距離に鎮座せり。

明治神社誌料



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