集落奥の山中に鎮座する。 古代健部(軍事集団)と何らかの関わりがあったと思われるが不詳。 |
久久美雄彦神社 祭神 久久美雄彦神 創建年代は不明であるが延喜式神名帳に記載され国司が奉幣した格式の高い神社である。仁明天皇承和5年に従5位下の神階を授けられ。その後9度の増一階により従三位に昇階されたものと推定される。この沢田の地区南に養老山北に伊吹山を望む位置にあることから祭神は伊富伎神社と同神の久久美比古命とする説がある。 明治6年郷社に列せられた。境内3564坪 境内神社二社両社とも創建年月不詳 三社神社 祭神 伊邪那岐神 伊邪那美神 木花咲屋姫神 神明神社 祭神 天照大御神 御大典記念 平成2年11月吉日建之 氏子一同 社頭石碑 |
久々美雄彦神社 創建年紀勧請不詳。延喜式神明帳曰く、美濃國多藝郡四座の内久々美雄彦神社是なり。旧笠松縣管轄美濃國式内神社考証曰く、久々美雄彦神社石津郡沢田村にあり。(神名帳名証曰、久々美雄神社有沢田。新撰美濃志曰く…久々美雄神社村内にあり。延喜式に多藝郡久々美雄彦と記し云々。美濃明細記神名式略考諸社一覧安永呈記塘叢社中に藏むる神鏡銘云々等同じ)今も久々美雄彦神社と称して一村の産土とす。(天明5年及寛政5年両度社殿修葺梁○並天文戊午(天文年間戊午年無し)年本社建替大工神文等何れも久々美雄彦大明神と記せり。)祭神不詳。神位は仁明天皇の承和5年始て従五位下を授け賜へり。(続日本後紀曰く承和5年8月奉授美濃國多紀郡無位久々美雄彦神従五位下。此の神位伴信友が神名帳標目私考に、天下の諸神併て増一階の○嘉祥4年より永徳元年に至りて凡そ九度ありと云る説に因りて勘ふれば已に従三位の相当とすべし。) 岐阜県神社庁 |
久久美雄彦神社 久々美雄は假字也、彦は比古と訓べし、○祭神明らか也○在所分明ならず○明細記云、澤田村今石津郡に属す、(両郡境也、また石津郡一の瀬村、何れか未考、) 神位 続日本後紀、承和5年8月壬辰、奉授美濃國多紀郡无位久々彦神從五位下 神社覈録 |
郷社 久々美雄彦神社 祭神 久々美雄彦神 創建年代詳ならずと雖も、霊体は長約そ一尺五寸の木像なり、延喜の制式の小社に列す、多芸郡四座の一なるべし、即ち神社覈録に、「久々美雄彦神社。祭神明らか也、在所分明ならず、明細記云、沢田村今石津郡に属す、(両郡境也、また石津郡一の瀬村、何れか未考、)神位続日本後紀、承和5年8月壬辰、奉授美濃国多紀郡无位久々彦神從五位下」と見え、神祇志料に、「久々美雄彦神社、今石津郡沢田村に在り。久々美子神と云ふ云々(神名帳考証美濃明細記)新撰美濃志に、「石津郡澤田村は多芸山の北の麓にあり、康正2年造内裏段銭国役引付に東岩蔵寺領美濃国沢鰭村段銭とあるは、ここなるべし、頓阿法師が歌に、「月やどる沢田の面にふす鴨の氷よりたつ明がたの空」とよみしはここなるよし埴生の涼風にいへり、御料五百九十五石一斗、久々美維彦神社村内にあり云々、今郡はたがひたれども、石津は齊衡2年多芸郡を割て立たる郡なれば、古書に多芸郡と志るしたる旧地の当郡に残りたるもの多し、市之瀬村にも同名の神社あり、合せ考ふべし」と云へり、以て本社の概略を窺ふべし、明治6年1月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、神庫等を具備し、境内坪数3586坪(官有地第一種)を有す 明治神社誌料 |