御井神社
みいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】御井神社 美濃国 多芸郡鎮座
          (旧地)御井神社【旧地】

   【現社名】御井神社
   【住所】岐阜県養老郡養老町金屋237番地
       北緯35度19分11秒,東経136度33分5秒
   【祭神】御井神
   【例祭】4月10日 例祭
   【社格】
   【由緒】正応年間(1288-93)洪水
       天正年間(1573-92)兵火で焼失
       正保年間(1644-48)洪水で神明神社の地に遷
       明治初年郷社御井神社が主となり、神明神社は境内社となつた。
       明治14年の後御井神社は春日神社の境内に遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】古昔は集落金屋の東7町ほどの四百五と呼ぶ場所にあつた
        正保年間の洪水の後神明神社の地太夫田に遷つた
        明治14年の後御井神社は春日神社の境内に遷(現在地)

   【祭祀対象】井戸
   【祭祀】江戸時代は「神明神社」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】神明神社・御鍬神社

古昔は集落金屋の東七町ほどの四百五と呼ぶ場所にあつた。
正保年間(1644-48)洪水で神明神社の地に遷した、明治初年には主客入れ替わり郷社御井神社が主となり、神明神社は境内社となつた。
その後、現在の春日神社の地へ遷した。境内は二社が並立しており右が御井神社、左が春日神社。


金屋鋳物師居住の跡

金屋は室町時代から江戸時代初期にかけて鋳物師が繁栄し、当代美濃国の梵鐘寺の鋳造を独占していたという。現在、美濃市大矢田神社の鐘、谷汲山華厳寺の鰐口等の外十数点の作品が残っている。金屋という地名もその名残りであるといわれる。

社頭石碑



御井神社

勧請年紀不詳。延喜式神名帳曰く、美濃國多芸郡四座の内御井神社及美濃國神名帳十六座の内従五位下御井明神は当社なり。旧笠松縣管轄美濃國式内神社考証曰く、御井神社多芸郡安久庄金屋村にあり。渡辺信喜順拝表曰く、御井神社多芸郡金屋村。今神明社に合せ祭る。此社もと村の東七丁許四〇五と云へる地に在て往古は社家社坊等もありけるが、天正の頃兵火に罹りて悉く焼失し、その後僅かに存続するものも度々洪水に流失せるにより、正保の頃神明社に移せし由云傳ふ。本村伊藤氏の所蔵旧記に曰く、一金屋村御井神社は四〇五井戸の傍井の上と申処に御坐候由。式内正一位の宮に御坐候。正応年中洪水にて流れ、天正年中兵火にて焼失、その頃迄は社家社坊も御坐候間、宮も二社御坐候。出水毎に水下に相成候故、正保の頃神明へ移し、四〇五井戸は深四五〇間程も御坐候。不思議なる井戸に御坐候。今に宮跡と申すは井戸の傍らに御坐候。御井神社多芸神社焼失同時に御坐候由申し傳へ候。と記せり。今も四〇五と云へる地には古井の存て如何なる旱魃にも涸るる事なく、此水今も盛に湧出て金屋村高450石余31町余の田面半は此井水の養を蒙れり。其傍に宮跡と称して社地も少か存れり。尚此辺を広く井の上井の道等称へて古い名寄帳にも其の字を数多記したり。祭神は御名の如く御井神なるべし。玉襷曰く、御井神は大國主神の御子にて御母を稲羽の八上比賣と申せり云々。其御社は神名帳に出雲國、大和國、美濃國などに御井神社とてあまたあり。神位は國帳内神名帳に従五位下とあり。美濃國神名帳に曰く、多芸郡従五位下御井明神。上に挙げたる伊藤氏の古帳に正一位とするは何れに拠りしや。さて、此の村は牧田川に続きて古より水害遁れがたく、且つ又此の多芸、不破、石津の諸郡天正慶長の頃は悉く戦争の巷にて社地寺境何れも軍士屯所となり、度々の兵火に罹りし事何処の傳言も附合しければ、此の地もその頃同じく焼亡せし事疑ひなし。尚その後も絶へ絶へ存れりしを正保の頃の洪水に又々流失せしにより、その後は再興の力もなく、神明社に併せ祭り、旧社地は耕地となりて、今は形のみ存れる事とはなりしなり。以上旧笠松縣式社考証を挙ぐ。末社御鍬神社明和四年創建。

岐阜県神社庁



御井神社

御井は美爲と訓べし○祭神御井神歟○在所詳ならず
類社
(欠く)
神位
本國神名帳、從五位下御井明神

神社覈録



郷社 御井神社

祭神 御井神 創建年代詳ならずと雖も、延喜の制式の小社に列す、即ち神社覈録に、「御井神社、御井は美爲と訓べし、祭神御井神歟。在所詳ならず、神位は本国神名帳、從五位下御井明神」と載せ、神祇志料には、「御井神社、今多芸郡安久庄金屋村にあり(式内神社考証○按村東)七丁許の旧社に四百五井あり、(其水村内の水田を潤す、旱魃にも涸るる事なし、其近辺に井上井道など云名あり)蓋し大国主神の子御井神を祭る(古事記)」と云ひ、共に多芸郡四座の一に数へたり、今按式内神社考証に、村民孫六の古帳を引て、「金屋村御井神社は四百五井の傍井之道と申処に御座候て、式内正一位の宮に御座候処、天正年中兵火にて焼失せしと云ひ、正保年中神明へ移申候、右四百五井戸に深四百五十間程御座候に付、四百五と申候、不思議なる井戸に御座候、今に宮跡と申井戸之邊に御座候」とみゆ、又其傍に宮跡と称て社地も少か存れりとある、本社の証とすべし」とあり、然るに新撰美濃志には、何等当社に関する紀事を載せず、「今御井神社の東七丁許に存し、四百五井あり、其水旱魃にも涸るることなく、水田を潤すと見ゆ、而して此水今に於て盛んに湧出して。金屋全村高四百五十石の田地に潅ぐと云ふ、玉棒に、「御井神は大國圭の御子にて、御母を稻明入上比責と申せり云云、其御社は韓名帳に出雲國大和国美濃剣などに御井韓社とてあまたあり、笠松縣式社考覆に曰く、「備此居村は牧田川に続きて古より水害遁れがたく、且つ又此多6不破石津の諸郡、天正、慶鋳の頃は悉く職雪の巷にて、社寺塩尋の危何れも軍士屯所となり、度々の兵饗に称りし、ヒと、何露の云傭も府合しければ、此地も其頃同じく焼失せしこと疑なし、街茎後絶々なりしを、正保の頃の洪水に又々流失せしにより、其後は再典のカもなく、碑明社に合せ掻り、養社地は追々耕地となりて、今は形のみ存れることとはなりしなり」と載せたり、以て本社の沿革を窺ふべし、明治七年郷社に列せらる。 社殿は本殿、覆舎等を具僚し、境内坤欽二百七坪(民有地箪二稀》を有す。

明治神社誌資料



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