梶谷八幡神社を式内大神神社に比定する説があるが不詳。 |
梶谷八幡神社 創立不詳なれど、古社なること明らかなり。古記録には永禄2年の祭典記あり。往古石津大明神又野々宮八幡社と称せしことあり。高須藩主の崇敬厚かりし故郡制時代迄郡長に対し一月の初鏡餅を送る古例とせり。鎮座由来には往古出水あり。今の城山村字庭田にありし宮流出て大江村字福江に至り茲に鎮座せし処又出水あり。此の宮宮地村に流着し、今の処に鎮座せりと云ふ。これをとみに寒竹流れ来り今に繁殖せり。例祭に福江より参列せしは近年迄続けり。福江より流来るといふ由緒に依る。新撰美濃志に山城の石清水を移すとあり。又宮地村野々宮八幡宮が延喜式神明帳にある多芸郡大神神社とせしは此社なるるべしと記載せり。又安永4年12月宮地村よりの書上明細帳として岐阜県庁保管書類に依れば天正7年氏子勧請仕候とあり、前記永禄年間の記録と対照すれば隔たりあり。 社叢 岐阜県天然記念物(昭和58年2月25日指定) 岐阜県神社庁 |
御造営記念 山城国男山に鎮座の石清水八幡宮よリ勧請されて以来、度重なる風水害等によリ聖地変遷を経て、此梶屋の地を美わしき処として御鎮まりになった。爾来、八幡大神の御神徳は申すに及ばず、境内中央に湧き出ずる霊水の信仰も殊に驚ぐ、その名声は遍ぐ世に知られ、明冶6年1月に郷社に列格された。然るに、昭和3年の御大典を記念し御造営なった御本殿、拝殿は五十余年の星霜を経過し、近年甚く老朽化し、その腐朽は真に及び難きものとなつた。ここに、「氏子、崇敬各位、一同に集い、相議りて一念を発起、奉賛会を組織し、又郷土出身の有緑の人々に、御本殿御造営ど拝殿改築の趣旨を説き。」浄財確得に奔走される。 昭和55年12月7日、総工費金四千萬円を以って、'御本殿、拝殿清々しく竣功され、本宮より献幣を奉りて慶祝す。氏子崇敬者各位の安泰ど隆盛を祈念し、御本殿御造営竣工にあたり、槙みて之を記す。 石清水八幡宮 宮司 田中文冶 社頭石碑 |
梶屋八幡神社社叢 言い伝えによれば、八幡神社本殿が、洪水のため市内南濃町庭田からこの地に流れ着いた際、寒竹も株のままま付きしたがい、ここに根付いたという。ここの寒竹は、節と節との間隔が長く、黒光りしており、一群れで、周囲3mほどになる、この竹を私的に使うと必ずたたりがあるといわれており、訳もないのに切ってはならないとされている。また、この竹の株の増減が、宮地、梶屋両集落の戸数の増減を示すともいわれている。 海津市教育委員会 社頭掲示板 |