持統天皇伊勢行幸のとき、右大臣三輪朝臣高市麿が御供をして伊勢三重郡まで来た時、大物主神が右大臣に託して「わが住む社を美濃多芸山の川上に建てよ」と仰せられたので、この地を選んで高市麿が創建という。 永和元年(1375)社地を現在地へ遷した。 大神神社の社叢は、岐阜県の天然記念物に指定されている。 |
大神神社 御祭神 大物主櫛甕玉依姫命命 相殿 神倭磐余彦天皇 比売多多良五十鈴比売命 沿革 当社は延喜式神名帳所載の神社で朱雀6年持統天皇伊勢国行啓の際右大臣三輪朝臣高市麿が神託を承けこの地に創建せりと伝う。 鳥羽天皇の御宇承久元年 御祭神 大物主櫛甕玉依姫命命 相殿 神倭磐余彦天皇 比売多多良五十鈴比売命 沿革 当社は延喜式神名帳所載の神社で朱雀6年持統天皇伊勢国行啓の際右大臣三輪朝臣高市麿が神託を承けこの地に創建せりと伝う。 鳥羽天皇の御宇承久元年(1115)郁季山富ヶ平に祭祀ありし神武天皇並びに皇后五十鈴姫の命の社殿暴風雨のため破損して当社の御手洗川に流れ来たり給う。よってこれを拾い上げ当社に合祀して流彦大明神と崇め大神神社全体を流彦大明神と称するに至る。同年七堂伽藍を建立。神威隆盛を極む。 安元2年(1176)高倉天皇仏像の御寄進あり当時神階正一位を授けられしという。江戸時代歴代領主高木三家崇敬厚く明治4年に大神神社と改め同6年郷社に列し 氏子等挙って崇敬の誠を捧げ今日に至る 御神徳 大物主大神の和魂幸魂奇魂の三つの輪(和)を持ち戴いて生きるとき人々は不思議な強い力を与えられる 夫婦和合医薬人造り国(郷)造りに霊験あらたかな大神である 総本社 奈良県櫻井市三輪町三輪山 元官幣大社 大神神社 社頭掲示板 |
大神神社 伝持統天皇朱鳥6年創祀。当社は延喜式神明帳所載の多芸郡大神神社で、持統天皇伊勢國へ行幸の際、右大臣三輪朝臣高市麿、車駕を奉じて伊勢國三重郡に至った時、大物主、右大臣に託宣あって右大臣当地を選定して、創建の趣を伝ふ。鳥羽天皇の御宇永久元年郁季山宮ヶ平に奉仕しあつた神武天皇並びに皇后五十鈴媛命の社殿(天延元年創建)暴風のため破壊して、当社の御手洗川に流れ来り給ふによって拾い上げ、当社に合祀して流彦大明神と崇め奉る。永呂土俗大神神社を流彦大明神と称し奉る。なお七堂伽藍を創立し、眞藏寺、神護寺、隠丈寺、正林坊、浄法坊、正光坊の四寺三坊を創建し、大いに当社の繁栄を極めた。81代高倉天皇の御宇安元2年某縉紳から仏像の寄進あり。今猶存する。其後正位を授けられたといふ。明治4年社号復古の際迄正一位流彦大明神と称していた。後亀山天皇永和元年6月社地を移し、今の処に再営(住地から除地不輸租)するといふ。又云ふ、応安年中火災のため社殿及七堂伽藍を焼失。然し再営の資乏しく仮に当地に往古より祭る天武天皇の社に移した。時に大勧進左近将監丹尚守右近将監不破守、大近右衛門尉藤原数光、宮司弾正小野尚光禰宜國実光、日比日向為定下部藤原家吉、社僧神護寺法隆等之を奉仕した。正親町天皇天正6年(永禄年中とも)兵火のため類焼にかかり廃滅した。当時迄神領百五十石ありといふ。明正天皇正保3年4月、時の領主小笠原主膳正貞信、高木藤兵衛貞友、高木次郎兵エ貞之、高木四郎左衛門貞重、高木権右衛門貞勝等社殿を再営した。宝暦10年7月10日及8月8日付高木一学より百五十七坪の社地寄進あり。宝暦年間は最も隆盛を極め、神護寺は醍醐寺末寺となった。石燈籠等宝暦7年以降寄進数基あり。大日本史にも本社の記事を掲げている。明治4年正月社号を復古して大神神社と改称した。 岐阜県神社庁 |
大神神社 岐阜県養老郡上石津村字街道。旧郷社。 延喜式内社。祭神大物主櫛型玉命。持統天皇伊勢国行幸の際、右大臣三輸朝臣高市麿創建という。永和元年(1375)社地を現社地に遷す。江戸時代領主高木家の崇敬をうく。流彦大明神とも称した。例祭10月10日。 神社辞典 |
大神神社 大神は於保美和と訓べし○祭神大物主命歟○玉村に在す、称三輪明神、(考証) 類社 大和國城上郡大神大物主神社の條見合すべし 神社覈録 |
郷社 大神神社 祭神 大物主櫛甕玉命 相殿 神倭磐余彦天皇 比売多々良五十鈴比売命 持統天皇6壬辰年、天皇伊勢国に行幸あり、右大臣三輸朝臣高市麿供奉して、伊勢國三重郡に至りし時、大物主神右大臣に託して曰く、我住むべき社を美濃国多芸山の川上に建つべしと、是に由りて、右大臣此地を撰定して創立せしものなりと云ふ、神社覈録に、「大神神社、大神は於保美和と訓べし、祭神大物主命歟、玉村に在す、称三輸明神」と見え、式内神社考証、神祇志料は、宮村三輪地にありとせり、今按ずるに美濃國式内神社考証に、往昔此郷中に三輸氏の人多く、中にも三輪三人衆と云へるもの、代々多良と時との二郷を領したりしが、天正6年織田氏の為に滅され、社頭も亦兵焚にかゝりて、今は拠るべきものなけれど、郷中に三輪氏多かりしこと、又村名を宮と云ひ、隣村に禰宜村あり、社地を三輪地と云もの由縁あり、降りて鳥羽天皇永久元年、都李山宮ケ平に奉祀せし神武天皇并に媛踏鞴五十鈴媛命の二柱の社殿(天延元年創建)暴風雨の為に崩潰して、当社の御手洗川に流れ来りしを以て、之を拾得して合祀し、是より里俗流彦大明神と称するに至る、同7年社殿及び神護寺等を築造して、頗る輪奥を極む、応安年中舞馬の災に罹り、暫らく附近なる天武天皇社の境内に假殿を設けて奉祀す、次いで社殿成りて奉遷す、其後天正6年兵焚に罹り、幾んど廃絶に帰せしが、正保3年4月領主小笠原大膳正貞信及び高木藤兵衝外三名の寄進によりて社殿を再興し、大に祀典を挙ぐ、是に於て盛観旧時に及ぱずと雖も、社規稍備はる、明治4年1月大神々社の號に復し、同6年1月郷社に列せらる、新撰美濃志に「宮村は松本の北にありて多羅の郷なり、御旗本領、百七十一石一斗七升九合九勺、此地高木氏代々土著、高木三家又は美濃衆と称し、幕府旗下異数の家柄なり、延喜神名式に多藝郡大神神社と志るしたるはこゝにありし社なるべし、今諸国ともに宮村宮地村なといへる地は、かならす大神の神の居ましゝ旧地なるが多ければなり」とある等、以て懲証するに足るべし。 社殿は本殿、拝殿、社務所等を具備し、境内坪数1085坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |