多岐の名の由来は、日本武尊の「吾が足得歩まず、たぎらぎしくなりぬ」の言葉から。 この地の豪族多芸氏が祖神をまつつたと思われる。 本殿裏に本殿に接して一基の円墳がある。恐らく多芸氏の墓と思われる。 |
多岐神社 当神社は和銅年間に創立鎮座された延喜式の古社で「三宮正一位護法大菩薩」なる勅額あり。古は多芸郡五十五ヶ村の宗社として神官多数斉仕し、別当寺六坊勤仕怠ることなかった、又安久に大鳥居 中村に御旅所があり 春秋二季の祭典は盛大を極めた。 しかるに弘治・永禄の動乱により社領を没収され・天正の洪水により社殿 諸堂流失して祭儀は一時衰退した。時移り慶長以後逐年に造営が行われ来たが、明治6年郷社に列せられ 昭和37年神社庁参向神社(金幣社)に指定せられ、明治 大正 昭和年間に於ける境内地並に社殿等の造営整備は目ざましく 盛大なる祭儀も亦復興した斯くて「五穀豊饒 諸願成就 信徒繁昌」の霊験益々あらたかに 氏子崇敬者の範囲も拡大しつつある 社頭石碑 |
多岐神社 如法経塚 多岐神社の社殿の裏の円墳の頂上に1189九年(文治5年)に建てられた如法経塚があります。 経塚というのは、平安時代の中頃から鎌倉・室町時代へかけて作られました。世の中は、末法といって仏の教えがすっかりすたれてしまう時代に入ったと信じ、今のうちに仏の教えを書いたお経を地下に埋めて残し、ずっと後の世に弥勒菩薩というお方が世に現れて、再び仏教が盛んになる時の準備をしておこうと考えて作ったものです。多くの場合、紙に墨で書いたお経を円筒形の経筒に入れ、地下30cmから60cm位の石の箱の中におさめ、その脇に魔除の刀や鏡を置き、木炭をつめて石の蓋をし、地上に饅頭型の盛土をしました。 平成3年12月吉日 多岐神社氏子総代会 境内石碑 |
奇瑞稲発生の地 大正2年7月から8月にかけて大日照りが続き、稲が枯れ大変困った時、多岐神社の社務所前に早稲、中稲、晩稲の三種類の稲が自然に生え見事に生育しました。 人々は、この神社の倉稲魂神の御霊験あらたかなのに驚き、毎日、陸続きに参詣者が訪れたといわれています。 境内石碑 |
多岐神社 和銅年間創祀。延喜式神名帳に載せられたる古神社なり。当國神名帳にも従四位下多岐明神とて本郡十六社の内に入れられたり。里老の伝説に、元明天皇の和銅5年の鎮座にして山城國紀伊郡稲荷神社と同神なりと云へり。国史を按ずるに、是より先和銅4年2月山城國紀伊郡飯盛山に始めて稲荷神社を建給ひしこと見えたれば、その頃國守などより此地にも勧請して五穀豊熟を祈られたるものか。其の事実は今傳はらざれども、正中2年9月13日、藤原友貞と云者当社に納めたる釣仏の背面に大塚大社は和銅勧請の霊社にて云々と記したるを見れば、和銅年中の勧請なりと云へるは古く云ひ傳へたるものなるべし。当社に傳ふる処の古文書に依りて考ふるに、昔は旧多芸郡一郡の総社として社領数百石を有ち、神官社僧等も数人ありて祭祀を奉し、神威甚厳しかりしかば、俗に不破郡南宮神社を一の宮とし、武儀郡州原神社を二の宮とし、当社を三の宮とし、当國の三大社の一として諸人之を崇敬せしとぞ。本郡養老村石畑は当社に租税を納めたる時の受取証今猶存せりと云へり。該村は当社の社領たりしなるべし。かくて弘治永禄の頃、豪族世の動乱に乗じ社領を略奪し、神官、社僧を放逐せしより屡々祭典廃れ神威衰て、竟に一村の村社となるに至れり。然るに文明維新の盛世に遇ひ、神徳再び世に顕はれ、去る明治6年1月岐阜県下第三十五区同四十四区兼帯郷社に定められたり。大正2年4月10日養老郡多芸村大字多岐小字高畑字将基頭鎮座村社八幡神社、及同社境内三社同郡同村同大字小字多芸墳字枯木鎮座無格社藤代神社同郡同村同大字小字多芸墳字前田鎮座無格社素盞嗚神社を当社覆舎内に移転合併したり。 岐阜県神社庁 |
多伎神社 多伎は假字也、郷名に同じ、○祭神詳ならず○大墳村(古代は安久村)に在す、今三宮護法大菩薩社と称す、例祭四月初中卯日、九月九日、(明細記) 類社 (欠く〉 鎮坐 元明天皇和銅元年鎮座、(明細記) 神位 本國神名帳、從五位下多岐明神、 神領 高三百五十石、天正の比より没す、(明細記) 神社覈録 |
郷社 多岐神社 祭神 倉稻魂神 素戔鳴命 大市比盗_ 創建年代詳ならずと雖も、延喜の制式の小社に列す、神社覈録に、「多伎神杜、多伎は假字也、郡名に同じ、祭神詳ならす、大墳村(古代は安久村)に在す、今三宮護法大菩薩社と称す、例祭四月初中夘日、九月九日、元明天皇和銅元年鎮座、本國神名帳、從五位下多岐明神、高三百五十石、天正の頃より没す」と見え、神祇志料に、「後村上天皇正平元年6月10日、御体御トに、社司神事を穢す御崇ありと云を以て、使を遣して中祓を科せしむ」とあり、社伝によれば元明天皇和銅5年の鎮座にして、山城国紀伊郡稲荷神社と同神なるべし、旧史を按ずるに、和銅4年2月始めて、山城国紀伊郡飯盛山に稲荷神祠を建て給ひし由見えたれば、其頃國守などの此地にも勧請して、五穀豊熟を祈られたるものか、今其事實は傳はらざれども、正中2年9月13日篠原友定なる者の当社に納めたる釣佛の背面に、大塚大社は和銅勤請の霊社にて云々と記せるを見れば、敢て附曾の説にも非ざるべし、また本社所蔵の古文書に拠れば。往古は多芸一郡の総社なるが故に、社領数百石を有し、且つ神官社僧等も数人奉仕し、神威赫々たりしかば、土俗不破郡南宮神社を一の宮とし、武儀郡洲原神社を二の宮とし、当社を三の宮とし、併せて当國の三大社と称して崇敬せしとそ、今に本郡石畑村には、当社に納税したる時の受領書を存すと云へり、然るに弘治永禄の頃世乱に乗じ、凶徒横行して社領を掠奪し、神官を放逐せしより祭祀漸く挙らず、社殿亦従つて衰替し、竟に一村の村社となれりと、之によりて本社の由緒并に沿革等略知悉するを得べし、明治6年1月岐阜縣下第三十五小区及び第四十四小区の郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、幣殿、覆舎、社務所等を具備し、境内坪数1167坪(官有地第一種)を有す、宝物は如法経碑(文治5年在銘)釣佛二十七面、棟札二十一枚、狛狗一対、太刀一口、鰐口一筒(寛延3年在銘)舞樂面一枚、観音木橡一体、文珠木像一躯、善神木像二躯其也数種を藏すと云ふ 明治神社誌料 |