天石門別神社
あめのいわとわけじんじゃ 所在地 社名
























   【延喜式神名帳】天石門別神社 美作国 英多郡鎮座

   【現社名】天石門別神社
   【住所】岡山県美作市滝宮89
       北緯34度55分56秒、東経134度12分16秒
   【祭神】天手力男神
   【例祭】11月3日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】第10代崇神天皇の御代に創建
       貞観5年(863)5月28日従五位上
       嘉元3年(1305)造営
       貞享2年(1685)津山藩主森長俊武運長久祈願
       元禄10年(1697)造営
       明治6年2月郷社
       明治13年9月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は滝を祀る
   【祭祀】江戸時代は「瀧宮神社」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造檜皮葺
       幣殿・拝殿・社務所・神饌殿・神樂殿・神庫

   【境内社】御楯神社・八幡神社・総神社・稲荷神社・早滝神社・宇受売神社・大歳神社

本社の創建は第10代崇神天皇の御代であるという。四道将軍の大吉備津彦命が弟の若建吉備津彦命と共に吉備国の平定に向った砌、播磨国の氷河(現在の加古川)で天神地祇を祭祀されたとき天手力男神が顯現され、「敵の潜むところには黒雲となつて豪雨を降らせ、また磐楯となつて護衛しよう」と約束せられた。この後、この神の加護によつて吉備国は平定されたので、大吉備津彦命は奉謝の意をもつて手力男神の宮地を求められ、この地に社を創建された。
本来は本殿裏の十町瀧(琴引滝)を依り代あるいは御神体とする瀧の神であろう。
現社殿の建立されている場所は昭和52年に地上げした地である。社殿の裏の一段低いところは旧社殿跡である。遷宮する前の本殿跡が約2間四方に囲んである。


天石門別神社

祭神 当神社祭神は天手力男神に坐し神代の昔天岩戸を開き奉り後永く皇孫を補けて大功ありし神なり今畏くも伊勢皇大神宮御正殿内右の御神坐に御相殿の神として厚く奉斉せられ給う。
鎮座の由来 當神社は人皇第10代崇神天皇10年四道将軍大吉備津彦尊の鎮座し給える古社にして御鎮座以来2000余年の歳月を経たり
社伝に曰く尊賊徒平定の勅命を奉じて山陽道地方に赴き給うや播磨國氷上の里に於いて道の口の祭儀を行い前途の平安を祈り給えり時に神教あり即ち尊之より征行し給はむ吉備國は山路峻嶮賊勢甚だ熾烈なり依つて吾嚮導して赴かしめ奉らむ吾は吉備國雄神河(吉井川の古名)の川上落滾つ早滝の下方に坐す天手力男神なりと尊甚く喜び給い神教のままに軍を進め短時日にして大いに皇威を伸張し給えり復命の後尊は此の地に至りまし自ら祭主として神恩奉謝と戦勝祝賀の盛儀を齋行し永く大神を鎮祀し給い之當神社の創始にして今本殿背後の石塚は即ちこの祭場の遺跡たり
皇室の御尊崇 古来皇室の御尊崇一方ならず第56代清和天皇の貞観5年5月神階從五位上に進められ給いしこと正史に明文なり之今を距る1100余年前のことなりき降つて第60代醍醐天皇延喜7年延喜式の制定に當りては全国神社中より撰ばれし2861社中に列せられ春秋二季の大祭は國費を以つて齋祀し美作三の宮として境内の広域九丁四面東西南北各正中に鳥居を建立して聖俗を明示せらるると共に神田十町歩を賜いて祭粢の料に充て給えり現に氏子横川に鳥居田及び作東町猿ケ谷に神入口(かんにゅうぐち)なる地名の存するはいづれもこの鳥居の古趾にして町内真神に神田(かうだ)と称する邑里の在るはこの時附与せられし神田の一部此処に在りしことの証左たり近き頃まで此の地に滝の宮一の鳥居趾とて小芝生あり古来氏子区域を十町と謂える由来を亦ここに存すると云う
武将并に領主と神社 武威興隆の世に在りてても武将の崇敬頗る厚く鎌倉期當地の地頭渋谷氏或は社殿を改め奉り或は神田神具祭器等を献納せること古書に明かなり然れども天正18年備前長船紀伊守貞行當地を所行するや未曾有の暴行を以つて神田を始め社有資産のすベてを没収す茲に於いて社勢俄に衰頽往昔より伝承せる4月春季大祭の矢夫佐女神事7月晦日の田実祭9月9日より10日間に渉る秋季大祭(この間に福本賀茂大明神即ち現福本神社・・大御神幸あり)等盛大を極めし諸祭儀を再び行うに由なく減失せるは寔に遺憾の極なりとす慶長8年森忠政津山城に入るや厚く當社を敬仰し年々社領五十石を奠納その裔伯耆守長俊元禄四年本殿改築の工を起し同10年2月竣工す之現在の本殿なり
民衆の信仰 氏子を始め大衆亦深く信仰し殊に夏季旱天に至れば必ず参拝して雨を祈るを例とす又大神の伊勢神宮に共祭せらるる由縁に依り参宮せんと志す者は遠近を問はず先ず當神前に額づきて道中の安全を祈りて後出発し帰途には絵馬を求めて之を社前に献じ以つて報賽の誠を至せり現に絵馬殿に掲ぐるものの中大なるは概ね参宮の礼参に係るものにして當神社の交通安全祈願祭の基なりとす
明治13年県社と指定せられ以つて終戦に及ぶ
昭和43年9月附近に県営ダム建設の議あり之が完成の暁社殿の水没すベき憂え同51年1月起工巨費を投じて御模様替大工事を敢行し参道を延長してその参入口に鳥居并に社標碑を建立し以つて昿古の大業を竣功せり
維持昭和55年6月吉辰
天石門別神社
英田町 文化財保護委員会

社頭掲示板



天石門別神社

この神社は、国鉄・姫新線林野駅から南来へ約24Km、片上鉄道・周匝駅からは北東へ約16Km、町役場のある国道374号線沿いの福本からは東へ13Kmほど山間へ入ったところの、英川郡英田町滝宮八九番地にある。もと県社。
社伝によると、大吉備津彦命が、吉備国を平定することができたのは天手力男神の加護によるものであるとして、河合川の上流の十町谷といわれる深い谷間を宮地に選び、創建されたのがこの神社のはじまりであるという。
祭神は、従って天手力男神、またの名を天石門別神とされている。
社殿は、この神社の下流に農業用水用の滝宮ダムが建設されることに伴って、昭和52年(1972)に7.3mの地上げ工事を行い、本殿はもとのままで移され、その他は新築するなどの摸様替えがなされた。社殿は南面しており、元禄10年(1697)に津山藩主・森長俊が建てさせた本殿は、一間社、入り母屋流れ造り・桧皮葺きである。
もとの本殿跡のすぐ北側には、直径・高さ共に1.5mほどの、お腕を伏せたような形に石を積んだ“猟師塚”と呼ばれるものがあり、古代の磐座ではないかと考えられている。
この神社の境内裏(北西側)に、高さ13m、幅8mほどの“十町の滝”と呼ばれる滝があるところから、地元の人は、この神社を“滝の宮さま”“お滝さん”と通称で呼んでいる。

社頭掲示板



天石門別神社

美作三宮 天石門別神社
御社名 天石門別神社 御鎮座以来御社名の変更されたことはない。
鎮座地 岡山県美作市滝宮89番地
  御鎮座以来、鎮座地の異動された事実はない。但し、鎮座地の呼称は種々異ったものがあった。即ち、古代大化の頃 英多の地方 和名鈔による 英多郡河会郷、鎌倉・室町時代、河会庄宮地村、旧幕時代、作州宮地村、町村合併まで岡山県英田郡河会村滝宮字滝宮89番地。
 祭神は天手力男神、社伝によると御鎮座は約2,000年余りまえといわれている。その年月日は不詳だが、財田氏家系図の端文によると第10代崇神天皇の御代に四道将軍大吉備津彦命が中国地方鎮撫の為西下された際、当神社の祭神、天手力男神の神教と神助により、いち早く其の目的を達せられたので、御礼の為当神社の神地を選び、御自ら祭主となられ鎮斎さられた古社と伝えられている。
 皇室崇敬の事実としては、清和天皇、貞観5年5月(863年)従5位下より従5位上に神階を昇叙さられ(三代実録所載)、つづいて醍醐天皇、延喜式の御制定に際しては、その当初に延喜式内の官社として全国3,132社の中に加えられ春秋の月並大祭は国費を以って執行せられたことが正史に明らか(延喜式)。
 武将の崇敬では嘉元3年(1305年)地頭、平重継によって社殿が再建され、降って明応8年8月15日(1499年)渋谷兵衛尉平国綱、神田を寄進(寄進状現存)。元禄10年2月(1697年)津山城主森長俊、本殿を再建(現在の本殿)、享保15年以降毎年9月大祭に領主土岐氏代参者を派して祭事を執行された。嘉永5年5月領主土岐頼寧、御屋根葺替並に国土安穏祈願の為、御印を寄進等があり、庶民もまた開運招福の守護神として、或は祈雨に顕著なる霊験があるため右より今日に至るまで遠近を問わず神前に額づいて神助を仰ぐもの跡を絶たず。
 名士の崇敬では明治43年衆議院議員福井三郎氏のあっせんにより、当時の内閣総理大臣桂公爵を始め諸名士より数々の資材が寄進された。明治6年美作国第18区郷社に、つづいて明治13年県社に昇格し終戦に至った。元禄10年2月、津山城主森長俊公によって再建された社殿のうち本殿のみは当時のままであり、幣殿・拝殿等は明治6年郷社と御冶定の際すべて改築した。但し、本殿横の八幡社は元禄以前の古建築である。明治6年改築された幣殿及び拝殿等も県営河会ダム建設により水没の憂を生じたので、敷地を量上げして本殿を始め他の施設を共に移築・改築・移転等の大工事を行い、昭和52年3月に完成したものである。
 磐座は古代に於ける祭場の跡として代表的(2,000年以上経っている)。
狛犬は(阿形の狛犬、吽形の狛犬)作者・年代とも不詳であるが、伝えられるところの渋谷国綱の寄進によるものと言われている。約480年(室町時代)前のものである。(※約10年ほど前、一基が盗まれたとのことで、今は中国製の狛犬を飾っているそうです。)
 琴弾きの滝、滝は二段になっていて上の滝が雄滝、下が雌滝で古くから知られている名瀑である。
 木製棟木鬼板、作者と製作年代は詳でないが、社伝によると元禄10年2月、津山城主森氏が本殿再建の際、旧社殿の貴重な遺物として永年保存するよう命じた由である。特に16葉の菊花の紋章が神社の格式の高かったことを有力に物語っている。
 八幡神社、祭神誉田別尊(応神天皇)、配祀 仲哀天皇、神功皇后、摂社として御本殿に次いで奉祀総神社とも言われる。古く河会郷中の八神社を合祭し、八社様とも言われていた。八社とは、福本神社(旧名 賀茂大明神)、大栄神社、奥神社、三保神社(旧名 矢野原宮)、磐渕神社(別名 木の宮)、上山神社、威剱神社、横尾神社。

由緒書



天石門別神社

当社は第10代崇神天皇の御代、四道将軍大吉備津彦命が、吉備地方平定報賽のため、自ら鎮斎したと伝えられている。延喜式内小社。清和天皇の貞観5年、神階従五位下から従五位上に昇叙せられている。
 嘉元3年地頭平重継が御社殿を再建。明応8年地頭平国綱が神田武具を寄進。元禄10年津山城主森長俊が御社殿を再建。享保15年から領主の代参が例年のようにあった。明治6年郷社となり、明治13年に県社に列格した。

岡山県神社庁



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