文武天皇慶雲4年(707)の創祀。貞観6年(864)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社で一宮とされ、永保元年(1081)には正一位の神階を授かる。 平安時代の代表的説話である『今昔物語』には当社の猿神伝説があり、鎌倉時代の後白河法皇の御撰にかかる『梁塵秘抄』では関西に於ける大社として安芸の厳島、備中の吉備津と共に肩を並べている。 現在も、鍛金・冶工・採鑛等の守護神、農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されている。 |
由緒 中山神社略記 文武天皇慶雲4年(707)此の地に社殿を創建して鏡作神を奉斎したと伝えられている。 貞観年間つとに官社に列せられ,延喜式に於ては美作国唯一の名神大社であると共に此の国の一宮でもある。 「今昔物語」に猿神の説話があり,後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」には関西に於ける大社として,安芸の厳島社備中の吉備津宮などと肩を並べている。 鎌倉時代に元冦など国家非常の時に際し,勅命により特に全国七ケ国の一宮に国家安穏を祈願せしめられているが,当社も其の中に選ばれて祈願を厳修したことが伝えられている。 弘安8年に一遍上人回国の途当社に参詣し念仏踊を行ったが「一遍聖絵」(国宝第八巻)に作州一宮図があって,其の節参詣の図が描かれている。 建武中興破れて天正に至る約400年間は,美作国中戦乱の巷と化し,為に社寺の祭祀も殆んど絶えなんとする有様であったが,当社は永正8年(1511年)と天文2年(1533年)の両度に祝融の厄に遭い,本殿以下山上山下の摂末社百二十社と共に宝物・什器・旧記・古文書等悉く炎上焼失した。 永禄2年(1559年)に至り,出雲城主尼子晴久戦捷報賽の為め社殿を復興した。 世に中山造と称せられる入母屋造妻入檜皮葺で方五間の宏壮雄大な御本殿であって,大正3年国宝建造物,現在国指定重要文化財である。 慶長8年森忠政美作全州を領して入封するに至り,国内漸く平定し歴代の藩主の崇敬も厚く社領の寄進や修築の資の奉献など絶ゆることなく,又「一宮さま」と親しまれ,朝野の信仰を集め,中世より近世にかけては門前市も大いに繁昌した。 明治4年国幣中社に列格,御祭神金山彦命と定められた。 これにより明治年間再度に亘り御祭神名を「鏡作神」に改められる様願出でたるも聴許せられず終戦を迎え,昭和21年宗教法人中山神社設立届出に当り御祭神名を主神鏡作神,相殿に天糠戸神,石凝姥神配祀と総て明治以前の社家伝承や旧記類に明記せられている御神名に旧した。 宗教法人中山神社となりし後も,御本殿以下諸建造物等境内の森に至るまで昔のままの姿にて防災施設も完備し,美作国の一宮と広く尊信せられて現在に至っている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
中山神社 美作国の一の宮として高い社格と農耕の神牛馬の守護神として広く人々の信仰をあつめてきた中山神社は、鏡作命を祭神として、慶雲4年(707年)創建され、その後戦国時代の天文2年(1533年)尼子氏の美作攻略のとき兵火により焼失したが、永禄2年(1559年)尼子晴久によって再興された。 その構造は室町末期のもので、安土桃山時代への過渡期の特徴を具有し、単層入母屋妻入り造り、桧皮葺きの本殿は中山造りと呼ばれ、他地方には例を見ず、大正3年(1914年)国の重要文化財に指定され、美作一円の神社建築の手本となっている。 広い境内の神社正面入口の鳥居は寛政3年(1791年)の建設であり、角貫に木鼻がなく笠木と島木にそりをもたせて壮大美を強調してあり他地方には例をみない中山鳥居として一形式をつくっている。参道を歩み御手洗川の石橋を渡れば津山城の大手二の丸にあった四足門を移した(1843年)表神門、本殿庭には寛文8年(1668年)津山藩森忠継奉納による燈籠二基がある。 更に中山鳥居の南道路べりにある「祝木のケヤキ」(市指定文化財)は樹令800年と推定され広い洞内には「祝木の神」大国主命をまつった小祠があり、目通り8.3m、樹高10.5mは県下一の巨樹である。その他中門前の右手には推定樹令500年というセンダンの幹に、ヤマザクラ他各種多様な植物が着生し、さながら植物の見本市を催しているなど、植物・鳥類・昆虫の宝庫である。 社頭掲示板 |
中山神社 御祭神 主祭神 鏡作神 鏡作部の祖神石凝姥神の御神業を称えた御名 相殿神 石凝姥神 天孫降臨の五部神、八咫鏡を造りませる神 天糠戸神 石凝姥神の父神 沿革 文武天皇慶雲4年(707)の創祀。貞観6年(864)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社で此の国の一宮とされ、永保元年(1081)には正一位の神階を授かる。 平安時代の代表的説語である「今昔物語」には当杜の猿神伝説があり、鎌倉時代の後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」では関西に於ける大杜として安芸の厳島、備中の吉備津と共に肩を並べている。 国家非常時(元寇など)には勅命により特に全国七ヶ国の一宮(武蔵・上野・伊豆・駿河・若狭・美作・肥後)を選び国家安穏を祈願せしめ当社も其の中に選ばれて祭祀を厳修したとされる。 建武中興破れて約四百年間は、美作国中戦乱の巷と化し、永正8年(1511)と天文2年(1533)の両度に祝融の厄に遭い宝物・古文書等悉く焼失したが、永禄2年(1559)に至リ、出雲国尼子晴久が戦捷報賛の為、杜殿を再建し歴代藩主の崇敬厚く、「一宮さま」と親しまれ、明治4年(1871)6月には、国幣中杜に列格す。 現在も、鍛金・冶工・採鑛等の守護神、農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されている。 社殿 現杜殿は、永禄2年(1559)出雲国富田城々主尼子晴久戦捷報賛の為、18年の歳月をかけ、再建されたもの。 本殿は単層入母屋造妻入・桧皮茸にて間口5.5間、奥行5.5間、建坪約41.5坪の宏壮雄大なもので大正3年国指定重要文化財。 これに巾2.5間、入3間の向拝を附し釣殿を介し、入母屋造平入・桧皮茸の拝殿へと連ねた形式を他地方に例のないことから"中山造"と呼び美作の多くの神祉の模範とされた。 和歌 平賀元義 あしひきの山を奇しみゆく水のさやけく清し中山の宮 高崎正風 中山の中たえわたしみしめなはいにしへにこそ曳かへしけれ 松岡利起 まかねふく吉備の中山弥高き神のみいつを仰く尊さ 丸山莞爾 中山の神のみもろに昔より名にしあふちの花のさかリは 源千秋 牛馬も神まゐりする中山の高きみゐつそ世にたくひなき 末社 総神殿 山上山下210社を合祀。寛保2年再建。御手洗川手前にあったものを大正2年移築。幸宮・宇都宮・小原神杜をも合祀。 国司社 地主神として大国主命を祀る。社殿横には「鉾立石」があり国難の際、本殿に移し、祈念された。 御先社、 中山の神の祖神を祀る。この神は中山の神の側にあって供をするという義で、一般には稲荷神として信仰されている。 猿神社 今昔物語26巻にみえる「中山の猿」の霊を祀るとされ、現在、猿田彦神として祀られる。牛馬の安産守護の神と信仰を受け、今も尚、ぬいぐるみの小猿を奉納する風習が残る。 猿神社 多くの願主によって奉納された猿のぬいぐるみがある。 祝木のケヤキ 当杜々前、中山鳥居の前の高さ約10.5m、樹令推定800年。 由緒書 |
中山神社 この神社は、国鉄・津山線津山駅から県道・津山〜加茂線を北へ約5Km、神社のすぐ東側を流れる鵜羽川とやや下流で横野川が合流して宮川となる地点の、津山市一宮695番地にある。もと国幣中社。古くから美作国の一宮とされている。 社伝によれば、創祀は奈良時代の慶雲4年(707)4月3日とされ、4月3日は“シガサン”と称して、今日でもこの神社の重要な祭日とされている。これは、和銅6年(713)4月3日に備前国から美作国が分かれたことが『読日本紀』(八世紀末完成)に記されており、年は異なるものの、月日が一致しているところから、分立にあわせて、美作国の吉備津神杜として創祀されたのではないかと推測されている。 それというのも、天武天皇のとき(678〜80)に吉備国から分かれた備前・備中・備後の三国は、いずれも吉備国の守護神である吉備津神社を、それぞれの国の一宮として奉斎しているからである。社名の“中山”については、吉備津神社の本宮がある吉備の中山(備前と備中の国境いにある山)に由来し、吉備津の名称を付けなかったのは、産鉄の国としての美作の特殊性によるとする説がある。 古くは“ちゅうさん”と音読するのが普通であったようであるが、現在では“なかやま”と訓読し、地元の人は“一の宮さん”とか“南宮さん”などの愛称でも呼んでいる。 祭神は、多数の説があるが、鏡作命、雨糠戸命、石凝姥命の鏡作り系統を生神として、相殿に大己貴命と瓊々杵命を祭るとする説が最も有力なようである。ほかには、吉備国からの分立に伴う吉備津彦命または吉備武彦命説、産鉄・製鉄の神である金山彦命説などがある。 現在の杜殿は、出雲の尼子氏が美作を平定後、戦勝記念の意味合いも込めて、天文6年(1537)から永禄2年(1559)にかけて再建したものである。社殿は南面しており、本殿は、正面三間・側面三間、単層入り母屋造り・妻入り(唐破風向拝付き)・桧皮葺きの壮大なもので、拝殿を含む周囲には唐門付き透塀が巡らされている。大正3年(1914)指定の国の重要文化財である。この入り母屋造り・妻入りの形式は、“"中山造り”とも呼ばれる神社建築の一様式になっており、美作地方にはこの様式の神社が多い。 この神社には、かつて112もの摂社・末社があったが、戦国時代の災禍によって、すべて焼失したといわれ、現布では総神殿、国司神社、御崎神社、猿神社だけとなっている。 このうち、本殿裏50mほどのところに奥宮としてある猿神社は、平安末期の『今昔物語』に記されている「中参の猿神」とされ、今日では安産・子育ての神として崇敬されている。 わが子の無事な出産・成長を、顧う人は、猿神社のほこらの前にある、赤い布で作った猿の縫いぐるみの中から一つをもらって帰り、・お守りとして、一年後の満願の日には、12カ月分と先にもらっていた一つを加えて、計13個の猿の縫いぐるみをお返しするという。 |