高野神社
たかのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】高野神社 美作国 苫東郡鎮座

   【現社名】高野神社
   【住所】岡山県津山市二宮601
       北緯35度3分33秒、東経133度57分53秒
   【祭神】彦波限建鵜草葺不合尊 (配祀)鏡造命 大己貴命
   【例祭】10月21-22日 秋季例大祭
   【社格】旧県社 美作国二宮
   【由緒】安閑天皇2年創建
       和銅2年(709)造営
       貞観6年(864)8月15日従五位上
       貞観17年(875)3月29日正四位下
       弘長2年(1262)造営
       永徳3年(1383)造営
       永享5年(1433)造営
       慶長11年(1606)造営
       寛文3年(1663)造営
       明治6年郷社
       明治13年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「二宮」と称していた
   【公式HP】 高野神社
   【社殿】本殿春日造銅葺
       幣殿・拝殿・装束殿・神饒殿・宝物殿・神樂殿・随神門

   【境内社】

社伝では、当社の祭祀は吉井川の河原にあった■馭盧岩(おのころいわ)に始まり、この岩を磐境として祀っていたと伝える。のち安閑天皇2年(534年)に社殿が創建されたという。
今昔物語集や宇治拾遺物語に「高野は蛇」と記されている高野神社。本社の神前に現われた蛇を埋葬したとの伝承をもつ蛇塚などもある。
この地は吉井川の本流に滑川、久米川、皿川、紫竹川、香々美川等が合流する地である。古代の津山盆地は広大な湖沼であつたといはれているが、この地はその湖沼に諸河川が合流して流入する地である。
往古はこのあたり一帯を宇那提森と称していた。また、『経信卿母集』の後記によると、本社を「うなでの社」とも称していた。ウナデとは潅漑のための人工の水路をいうが、古代は湖沼であつたといわれる津山盆地はこのあたりから干拓事業が行なわれていつたのであろう。本社はその干拓事業と、そのあとにできた水田を守護する神として奉齋されたものと思われる。


由緒

高野神社略誌
由緒
謹んで案ずるに,我等の氏神高野神社発祥の地は吉井川原のONO馭盧岩と伝えられます。
遠い祖先は此処を磐境として敬虔な祭祀を行っていたものと思はれます。
今から約千五百年の昔安閑天皇二年(五三四年)に山川の秀麗にして清浄な此の地を選んで社殿を営み神霊をお祀りしました。
御神威は年と共にお栄えになり,早くから美作総鎮守三大社の一つとして,広く官民大衆の尊信するところとなったのであります。
また朝廷におかせられても,すでに平安時代に高い神位に進められ,延喜式内社として特別の崇敬を捧げられ,降って武家の世となってからも源頼朝,山名時治,毛利元就,小早川隆景等の諸将が社殿の造営や祭資の献納などにつとめ,森厳優雅な社叢宇那提森の雅名と共に,広く世にたたえられるようになりました。
そして戦国衰頽のあとをうけて美作国主となった森氏は,社領を寄進し社殿を修造して祭祀を盛んにし,松平氏もまた年々祭資を供進し,現在の社殿は,寛文3年(1663年)森長継によって修造されたもので,県の重要文化財に指定されています。
(注)文中のONOは「石」偏に「段」です。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




高野神社

祭神 彦波限建鵜葺草葺不合尊
相殿 鏡作命(中山神)
大巳貴命(総社神)
由緒 安閑天皇2年(西暦紀元534年)の鎮座にして延喜式内社である。美作国二宮として官民の尊崇厚く源頼朝は神門を建立し、山名氏は社殿の修造神馬の奉献毛利元就及小早川隆景は祭祀厳修を令し社殿を修造した国主森氏は代々深く崇敬の誠を尽し社領八十石を献じ寛文3年(紀元1663年)長継公は現社殿を造営した。旧社格は県社である。

社頭掲示板



高野神社

この神社は、国鉄・姫新線院庄駅から東へ約800m、津山市街地の西端に当たり、山すそが吉井川に突き出したような台地上の、津山市二宮601番地にある。もと県社。
社伝によれば、安閑天皇2年(535)の創建とされているが、これを証するものはない。
古くは“こうや”と称されていたことが諸本から伺えるが、後世“たかの”と改称されたようである。中山神杜に次いで、美作国の二宮とされている。
この神社の東参道端に“宇那提森遺跡”が保存されており、往古はこの辺り一帯を宇那提森と称していたところから、この神社はウナデと密接にかかわることが推測される。ウナデというのは、潅漑のための人工の水路のことである。平安末期の『今昔物語』に、この神社のことが「高野は蛇」と記されており、蛇は水神の化身と考えられていたところから、本来は古井川の水神を祭祀したものとみられている。
祭神は、彦波限建鵜茅葺不合尊(初代神武天皇の父)を主神として、大己貴尊と鏡作尊を相殿に祭るとしている。
社殿は、南面して建てられており、寛文3年(1663)に建築された本殿は、正面三間・側面四間、入り母屋造り・妻入り(唐破風向拝付き)・銅板葺きで、透塀が巡らされている。
境内には、稲荷神杜、八幡神社、龍神社、荒神社、淡島神社、末社殿などの諸杜がある。



高野神社の指定文化財

木造神号額 (国指定重要文化財)
 随神門に掲げられていたとされる額です。寛弘6年(1009)三蹟の一人藤原行成の筆とされています。
木造随身立像 (国指定重要文化財)
 随神門の両脇に侍立していた阿形と吽形の一対の像です。応保2年(1162)2月2日の胎内銘があります。銘のある随身像としては国内最古のものです。
木造獅子二対 (国指定重要文化財)
 大小二対あり、大きい方の一対は平安時代前期にさかのぼり、国内最古に属するものです。小さい方の一対は平安時代後期の作です。
高野神社本殿 (岡山県指定重要文化財)
 現在の本殿は、寛文3年(1663)森長継によって再建されたものです。正面三間、側面四間の入母屋造妻入で向唐破風の向拝を付けたいわゆる「中山造」と呼ばれる様式の建物です。
高野神社隋神門及び覆屋 (津山市指定重要文化財)
 門は社伝によると、建久2年(1191)に再建されたとあります。現在残されている門は、この時のものと考えられています。安政2年(1855)に付設された覆屋によって往時の姿が保たれています。
宇那提森のムクノキ (津山市指定重要文化財)
 神社東参道の石鳥居の内側にあります。樹高は最大で13m、樹齢は700年と推定されています。かつて鬱蒼とした宇那提森がありましたが、伐採されてこのムクノキだけが残ったといわれています。
 平成20年12月1日  津山市教育委員会

社頭掲示板



高野神社

野神社発祥の地は吉井川原のオノコロ石と伝えられており、遠い祖先は此処を磐境として敬虔な祭祀を行っていたものと思われます。
当社は岡山県津山市二宮に鎮座する延喜式内社であります。今から約1500年前、安閑天皇2年(534年)に山川秀麗にして清浄な此の地を選んで社殿を営み神霊をお祀りしました。 御神威は年と共にお栄になり、早くから美作三大社の一社として、広く官民大衆の尊信するところとなったのであります。
また朝廷におかせられても、すでに平安時代には高い神位に位置し、延喜式内社として特別の崇敬を捧げられ、武家の世となってからも源頼朝、山名時春、毛利元就、小早川隆景等の諸将が社殿の造営や祭資の献納などにつとめ、森厳優雅な社叢宇那提森の雅名と共に、広く世にたたえられるようになりました。
そして美作国主になった森氏は社領を寄進し社殿を修造して祭祀を盛んにし、松平氏もまた年々祭資を共進し、現在の社殿は、寛文3年(1663年)津山藩の第2代藩主森長継公によってご造営されたもので、県の重要文化財に指定されています。

公式HP



美作国INDEXへ        TOPページへ



順悠社