高野神社
たかのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】高野神社 美作国 苫東郡鎮座

   【現社名】高野神社
   【住所】岡山県津山市高野本郷1014
       北緯35度4分39秒、東経134度3分8秒
   【祭神】高野造祖神
   【例祭】10月第3日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観6年(864)8月15日従五位上
       貞観17年(875)3月29日正四位下
       永禄年中(1558−70)尼子晴久によつて再興
       文化7年(1810)9月造営
       明治6年2月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは西隣の天台宗の寺院、永安寺の上の方に鎮座
        永禄年中(1558−70)尼子晴久によつて再興現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡神社」と称していた
   【社殿】本殿檜皮葺
       幣殿・拝殿・神樂殿

   【境内社】

社伝では他に主神を彦波限建鵜草葺不合命、相殿神を応神天皇、神功皇后とする説がある。
本殿内に鎌倉時代の作と伝えられる三体の小さな神像が安置されているが、この三体はおそらく鵜草葺不合命、応神天皇、神功皇后を意識して作られたものと思われる。
旧社地は現社地の西隣の天台宗の寺院、永安寺の上の方であつたおもわれ、永禄年中に尼子晴久によつて再興されたとき現社地に社殿が建立された。


高野神社

当神社の創建年代は不明であるが、高野神社として貞観6年(864)従5位上に叙せられ、始めて国史に登場し、ついて貞観17年(875)正4位下昇叙された。さらに延喜5年(905)から編集された「延喜式」の神名帳に登載され、式内社となった。式内社は美作国では10社しかなく津山市内では高野神社と中山神社のみである。
御祭神は古くは彦波限建鵜草葺不合命1柱であったが、中世に武家の勃興と共に、相殿に応神天皇、神功皇后をお祀りして、明治維新頃までは八幡宮と称して篤く信仰されてきた。
現在はこの高野の地を開拓し、繁栄に導かれた祖神として高野造祖大神と称えている。
我々の先人達は日毎夜毎この御社を仰ぎながら、豊かな暮らしが営まれていた物と思われる。今なお、鳥居場、神田、祢宜池、垢離取池、神子池、西詰池、神社池等、往時を偲ばせる多くの地名が伝えられている。

社頭掲示板



高野神社

高野神社御由緒
御祭神 高野造祖大神
主神 鵜葺草葺不合命
相殿 応神天皇・神功皇后
高野神社の創祀年代は不詳であるが、はじめて国史に登場するのは貞観6年(西暦864年)従五位に叙せられたことに始まる。ついで貞観17年(西暦875年)正四位下に昇叙され、さらに、延喜5年(西暦905年)から編纂された「延喜式」の神名帳に登載され、式内社となった。式内社は、美作国では十社しかなく、津山市内では中山神社と高野神社のみである。
御祭神は、古くは鵜葺草葺不合命一柱であったが、中世に武家の勃興とともに、相殿に応神天皇、神功皇后をお祀りして、明治維新頃までは八幡宮と称して、篤く信仰を寄せられてきた由緒ある古社で、現在ではこの高野の地を開拓し、繁栄に導かれた祖神として、高野造祖大神と称えている。
神社の周辺には神社に因んだ屋敷、池等の地名が広範囲にわたって数多く残っており、往時が偲ばれる。御神徳は古来安産、厄除等の信仰が殊の外篤く、大神の広大無辺な御神徳を慕って遠近の参拝者が後を絶たない。
近年では交通安全、家内安全に加え、地域の稚児の初宮まいり、七五三まいり等の御祈祷も次第に増加している。
現在の御本殿は、文化9年(180有余年前)に建立されたものである。

社頭掲示板



式内社高野神社と二宮高野神社

「延喜神祇式」神名帳に
  (美作国)苫東群二座  大一座 小一座
  高野神社 中山神社
とある。ところで今日、ここに所載されているところの所謂式内社としての高野神社を主張している神社が二社存する。すなわち、岡山県北部の山間部の都市、津山市の東部の農村である津山市高野本郷鎮座の高野神社と津山市街地の西端、津山市二宮の高野神社の両社である。前者は普通の農村に見られる鎮守の社であるが、社格は旧郷社で、後者は平安時代末期以来美作国二宮として崇敬された大社で、旧県社である。このどちらが式内社であるかについて、地元の人たちは二宮をそれにあてる人が多い。また、研究者のなかにも、最近美作国研究に多くの研究成果を発表されている
美作女子大学の八木意知男氏なども二宮を式内社と考えておられるようである。しかしこれに対して大阪教育大学の鳥越憲三郎氏は式内社は高野本郷の高野神社であって、二宮はのちにそれを勘請したものであると主張されている。また明治の国学者である矢野玄道や道家大門、菊地九江等も高野本郷側を主張して、その縁起書を書いている。すなわち、このどちらが式内社であるかどうかということについての議論は今日も続いているのである。
  さて高野本郷の鎮座の当式内社高野神社の創祀はかなり古い。現在の高野本郷のあたりは美作国でも最も古くより拓け、おそらく弥生時代には農耕が営まれていたであろうこと、高野神社の御祭神は、はじめは彦波限建鵜草葺不合尊一神であったであろう点から、弥生時代の頃に吉井川さかのぼって入殖した海人族たちによってこの地が拓かれ、また彼らによって高野神社が創祀されたであろうことが推測できるのである。
「日本三代実録」貞観6(864)年8月15日己己の条に
  美作国従五位下長田神、兎上神、前社神、佐原神、形売神、壱粟神、横見神、久止神、高野神並授従五位上と、他の美作国の諸社と共に従五位上の神位を奉叙されている。この高野神社が式内社高野神社であろうことは「延喜式」の編纂時期に近いことから間違いあるまい。これが本社の正史初出である。この神階奉叙の理由は不詳であるが、美作国の諸神で神階を奉叙された記事が存するのは貞観年間に限られていることから、当時政権を担当していた藤原良房と特別な関係が存したのであろう。この貞観六年の時点で高野神社はまだ官社すなわち式内社には列せられていなかったと思われる。なぜならば当時、美作国で神階が最も高かったのが従四位下の中山神社であるが、その中山神社が官社に列せられたのはこの前日すなわち同年8月14日のことであるからなのである。
  次に正史に所見するのは同じく「三代実録」の貞観17年3月29日壬子条で
  授伊予国従二位大山積神正二位、正四位上磯野神、近江国正四位下三上神並従三位、大和国正五位下天石戸別神、霊産魂命神並従四位下、美作国従五位上高野神社正五位下、従五位下御鴨神従五位上、因幡国正六位上神前神、伊予国  正六位上風伯神並従五位下と、正五位に昇叙されている。この昇叙で正三位の中山神社についで、高野神社の神階は美作国では第二位となった。中山神社が鉱山神として砂鉄を求めて山に入る人々によって信仰されたのに対して、古くから拓けた農耕地に鎮座された高野神社は農耕神として重んじられたのであろう。それ故、「延喜式」では中山神社とならんで官社(式内社)に列せられたのである。
(これは、武庫川大学講師熊谷保孝氏が式内社研究会の委託を受けて調査し発表された論文の抜粋である)

津山瓦版 https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/jinja/takano/



高野神社

当社の創祀年代は不詳であるが、はじめて国史に登場するのは貞観6年(864)従5位に叙せられたことに始まる。ついで貞観17年(875)正4位下に昇叙され、さらに延喜5年(905)から編纂された「延喜式」の神名帳に登載され、式内社となった。
 御祭神は、高野造祖大神と申し上げ古くは鵜葺草葺不合神1柱であったが、中世に武家の勃興とともに、相殿に応神天皇、神宮皇后をお祀りして明治維新頃までは八幡宮と称して篤い信仰を寄せられてきた由緒ある古社で、今もなお広大無辺な御神徳を慕って遠近からの崇敬者の参拝が後を絶たない。現在のご本殿は文化9年に建立されたものである。

岡山県神社庁



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