長田神社
ながたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】長田神社 美作国 大庭郡鎮座

   【現社名】長田神社
   【住所】岡山県真庭市社654
       北緯35度10分57秒、東経133度45分3秒
   【祭神】事代主神
   【例祭】10月9日 秋季大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観6年(864)従五位上
       康和3年(1101)11月造営
       正嘉元年(1257)4月造営
       文明11年(1479)2月造営
       嘉永6年(1853)4月造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは布勢郷下長田村にあった
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿

   【境内社】

二タ宮(フタミヤ)の地に4社並んで鎮座している社の西(向かって左)端の社。
「美作国内神社記」に、在布勢郷下長田村とある。
美作国大庭郡の式内社8座はこの狭い地区に集中して鎮座している。佐波良神社と形部神社は「形部神社 佐波良神社」として合祭されており、壱栗神社(2座)・久刀神社・菟上神社・長田神社の4社は下流の二タ宮(フタミヤ)に鎮座し、残る横見神社だけが4社の西南100mの位置に鎮座している。
この8座は元来大庭郡のあちこちの郷に散在していたものをこの地に統合したものであると思われる。


長田神社

長田神社(湯原町)
この神社は、壱粟神社、菟上神杜、久刀神社と同じ境内地の西(向かって左)端にある。もと村社。地元では、通称“九の宮”と呼んでいる。
式内杜の長田神社については、現・真庭郡八束村下長田にある、もと郷社の長田神社がそれであるとする説がある。『岡山県通史』(昭和5年=1930)はこの説をとっており、『吉備地方史の研究』(昭和54年=1979)は否定的な見解を示している。
祭神は、事代主命(別称・伊毘志都幣尊。大国主尊の古代出雲国の後継者)とされている。
本殿は、一間社・流れ造り・銅板葺き(もとは柿葺き)で、嘉永6年(1853)銘の棟札が残っている。
他の三社と同様に、神階が従五位下から従五位上へ進んだと『三代実録』にある。

社頭掲示板



二宮

由緒 当仕は「延喜式内社」と伝えられる「久刀神社」「壱粟神社」〔※「大笹神社」を相殿に祀る)「菟上神社」「長田神社」を並列して祀る神社であり、四つの本殿を一つの拝殿で祀る特殊な形式を持つ。
なお、神社名の「二宮」は地域での便宜上の通称であ.り、正式には四つの社殿が独立した神社として登録されている。各社を東より列記する。
12久刀神社 御祭神 久那止神
クド神社とも呼ばれ「三代実録」貞観6年(864年)8月15日の条に「美作国従五位下久止神授従五位上」とあり、大庭郡の延喜式内社として記された「久刀神社」と伝えられる。「大日本史』によれば元は「横田郷」にあったものと記されているが「横田郷」の所在そのものが不明であり、昭和5年(1930年)の「岡山県通史」では旧中和村の中和神社に合祀された「久那止社」が勧請されたものと推察されている。社殿は康和3年(1101年)、正嘉元年(1257年)に再建されたとある。
13壱粟神社 御祭神 神大市姫命
 大笹神社 御祭神 大佐々神を相殿に祀る
「延喜式」九条本に「壱粟神社二座」とあり、古くからこの二社は同一社殿に祀られている。「三代実録」の貞観5年(863年)5月28日の条に「従五位下壱粟神大佐々神止並授従五位上」とあるのが初見である。また「大日本史」には「壱粟神社二座(神社記云在久世郷今社村曰大宮)祀壱栗大佐々二神(神名記帳拠土人傳説)貞観6年(864)自従五位下加従五位上」とあり、壱粟神社がもとは久世郷にあったと記している。なお、津山市大篠に「大佐々神社」が鎮座するが、この神社との関係は不明である。康和2年(1100年)、建長6年(1254年)、貞治5年(1366年)に社殿が再建されたと伝えられる。
14菟上神社 御祭神 岐神 弟彦王命
ウカムノ神社とも呼ばれる。御祭神の「弟彦王命、は和気清麻呂の十一代前の祖先で、神功皇后の新羅討征の帰路に謀反を企てた忍熊王を討った功績から磐梨の県(後の和気郡)を賜り、和気氏発展の基礎を作った人物である。
「三代実録」貞観6年(864年)8月15日の条に「美作国従五位下菟上神授従五位上」とある。
永禄2年(1559年)の棟札に「正一位」の号が記されていたと伝えられる。「三宮」の呼び名もある。
康和2年(1100年)、保延4年(1138年)、貞治5年(1366年)に再建されたと伝る。
15長田神社 御祭神 事代主命
ナカタノ神社とも呼ばれる。「三代実録」貞観6年(864年)8月15日の条に「美作国従五位下長田神授従五位上」とあり、この地区の他神社と同時期に揃って神階を進めている。「大日本史」では「神社記云在布勢郷下長田村今社村曰九宮・・・」とあり、以前は旧八束村下長田にあったとしており、「九宮」とも呼ばれていた。
康和3年(1101年)、保延4年(1138年)、正嘉元年(1257年)、文明11年(1479年)、嘉永6年(1853年)に再建されたとある。 以上四社は明治の初めに村社に列せられた。その後、明治44年(1911年)頃に地域の無格社「御崎神社」「荒魂神社」「公文神社」「祖霊神社」「愛宕神社」「天神社」が合祀されている。また「作陽誌」にはこれら四社と形部・佐波艮神社や横見神社はそれぞれ独立して神田を有したことが記されている。
佐波良領 六斛一斗九六合
形部領 二石八斗八升二合
横見領 十七石二斗四升八合
久刀領 一石八斗
菟上領 二石六升四合
長田領 九斗三升八合
また明治8年(1875年)9月18日に改められた「八社神社三度御祭礼神興守警固等覚録」には式内八社それぞれの神輿を始め幟・金幣などの威儀物、掃除割り当てが月・地区単位で記されており、古来より社村をあげてこれら式内社を護持する体制が続いていることが覗える。

岡山県神社庁真庭支部



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