一粟神社等四社五座の西南に川をへだてて100mばかりのところに一社だけ鎭座する。 |
横見神社 祭神は大山津見命であって、清和天皇貞観6年8月15日(864年)従五位上に叙せられ、社殿は保延4年2月(1138年)、貞治5年9月、文明11年2月に再建、拝殿は昭和56年7月13日未曾有の豪雨に襲われて流出し、昭和58年10月9日再建竣工、社格は式内村社であった。 本社は社に在る刑部神社、佐波良神社、久刀神社、菟上神社、壱粟神社、大笹神社、長田神社とともに八社宮と言われ、美作にある式内十一社の内八社がここ社に祀られている。 昭和32年湯原町文化財指定 社頭掲示板 |
横見神社 横見神社(湯原町) この神社は、美作田の式内社十社のうち、七社までが集中しているこの地にあって、壱粟神社など四社がある“二タ宮”から南々西へ100mばかり、社川をへだてた対岸の、真庭郡湯原町杜字加佐見山七五八番地に、一社だけ離れてある。もと村社。通称“十の宮”という。 この神社は、『大日本史』には、大庭郷富西谷村にあると記されている。大庭郷は、現在の貞庭郡落合町大庭から同郡久世町三崎・目木辺りに相当するが、その辺りには富西谷村が存在したという史実はない。近世あった西西条祁富西谷村(現・杵田郡富村富西谷)は、富庄に属する村であり、大庭郷を貫只流する目木川のはるか上流に位置している。 『岡山県通史』(昭和5年=1930)は、富西谷村の横見神社が式内社であると伝わっているけれども、確証がないとしている。 祭神は、現在は大山津見命(瓊々杵尊の后の阿多津比売命の父)とされているが、中世の諸書には記載が見られない。 社殿は、東向きに建てられており、本殿は、一間社・流れ造り・銅板葺き(もとは柿葺き。昭和58年に葺き替えたもの)である。建築年月は不詳であるが、嘉永6年(1853)の棟札が現存している。拝殿は、本殿の改修に合わせて、昭和58年に改築された。 境内末社は、以前はあったと古老はいうが、今は無い。 |
横見神社 由緒 当社は「三代実録」貞観6年(864年)8月15日己巳の条に、「美作国従五位下横見神授従五位上」とあるのが初見である。「大日本史」では「横見神社神社記云在大庭郡冨西谷村今在社村曰十宮」とあり、元は冨村(現鏡野町)西谷から移されたものとしており、「十宮」とも呼ばれていた。 保延4年(1138年)2月、貞治5年(1366年)9月、文明11年(1479年)2月にそれぞれ再建されている。明治の初年に村社に列し、明治44年(1911年)頃に牧原の「疫神社」が当社に合祀されている。昭和56年(1981年)7月13日に湯原地域に甚大な被害をもたらした集中豪雨で拝殿が流出し、昭和58年(1982年)10月9日に再建されている。 社の式内八社 前出の「佐波良・形部神社」は字大社口に、「久刀神社」「壱粟・大笹神社」「菟上神社」「長田神社」の通称二宮は字宇和佐に、「横見神社」は宇加佐美川と、それぞれ三ヶ所に分散して鎮座する。これらは通称「式内八社」と呼ばれ、三度の大祭など祭事は共通して同日に行われており、社地域が篤く護持している。なぜこの山里に美作国の式内社11社のうち8社が集中したのか、さまざまな研究がなされている。 一つには美作地域が古代有数の鉄の産地であったため、重要拠点として備前美作国造の和気氏の祖先が進出し、この地を勢力下に置いて発展し、製鉄関連の神を周辺地域から遷座・勧請したものとする説がある。「大日本史」では「佐波良神社」は大庭郡美和郷から、形部神社」は同河内郷から、また「久刀神祉」は横田郷、「壱粟神社」は久世郷、「長田神社」は布勢郷、「横見神社」は富西谷から、それぞれいずれかの時代に何らかの理由で移転されたものとしている。 また、他説として先代宮司であった佐伯百会氏が自著「別の角度から見た式内八社の新研究」で「この地は旭川と日野川を通じて、山陽山陰の交流点、大和・吉備勢力と出雲勢力との交流点、文化的にも地理的にも(中略)前哨的役割を果たす」地であり、大和勢力から派生した和気氏一族の一部がこの重要拠点である社の地に駐留し、入植して最初に佐波良・形部神社で一族の祖先神を祀り、長い年月の開墾の過程で一族が増えた時点で二宮地域の諸社を順次作り、最後に横見神社を作ったとする説を提唱されている。 この根拠として三度の大祭の他に行われる共同祭の「小忌祭」「端午重陽祭」「神局祭」のうち、「神局祭」では社村の四方の人り口に注連縄を張り看視人を置いて、他地区の者が立ち入らない中で夜間にひっそりと行われたことや、地区内の生活困窮者を佐波良の神馬別当に任命して生活支援を行い、一族の脱落者を出さない方策を行っていた事など地域の結束の強さを挙げている。 この他にも諸説があるが、式内八社については資料等も少なく、真実は今後の研究に委ねるのみである。 岡山県神社庁真庭支部 |