平安時代、醍醐天皇の延喜5年(905年)8月、山城国男山八幡宮を勧請したと伝わる。 大正元年(1912年)9月、近隣各部落に鎮座する摂社、無格社を合祀した。この中に、田中大明神と称した摂社田中神社が含まれる。 この田中神社は、『延喜式』美作国 大庭郡「佐波良神社」に比定される式内社(小社)の論社。 『作陽誌』によれば、田中神社は大宮神社とも呼ばれ、御祭神は武内宿禰で、高良玉垂命と記されている。 |
八幡神社 当社は元大庭郡古見村、山方、原方両村の氏神で八幡宮と称し、祭神は誉田別尊である。 醍醐天皇延喜5乙丑年8月山城国男山八幡宮から勧請したと伝えられている。作陽誌に、「神噐頗る備わり門神あり」と記してあり、当時の権門、武将等の崇敬が篤かったことが窺える。 大正元年9月、古見地内各部落に鎮座の摂社、無格社を合祀した。 摂社田中神社は田中大明神と称していたが、作陽誌には大宮神社で御祭神は武内宿禰で高良玉垂命と記されている。これは、元佐原庄が転訛した田原庄総氏神で美作式内11社の内の佐原神社であると美作112社記に記されている。 無格社は、住吉神社、一対神社、山玉神社、天満神社、森神社、湯天神社、上野神社、行平神社と金崎、堂の段、行平、大京等の各荒神社を奉斎している。 昭和14年1月6日本殿炎上、安永3年建立の社殿神噐等ことごとく烏有に帰したが、同年10月再建し今日に至っている。 岡山県神社庁 |
八幡神社 由緒 当社は延喜5年(905年}山城国男山八幡宮から勧請したと伝えられているが由緒は不詳である。昭和14年(1929年)1月6日夜、ご本殿炎上し、安永2年(1774年)11月建立のご社殿等悉く烏有に帰したが、その年の10月12日再建されたのが現在のご社殿である。 明治42年(1909年)字住吉の大己貴神社、字一対の倭姫神社、字金崎の大山祇神社、字湯上の森神社、字大蔵の湯矢神社、宇上野の上野神社、字行平の大己貴神社、字田口、小林、河本、矢ヶ市、上野、、戸坂、堂の段、行平、大京、金崎の各荒神社を合祀した。大正元年(1912年)には字大明神の田中神社を合祀した。田中神社は「作陽誌」によると「大宮神社」とみえており、明治以後田中神社と改称されたもので、元田原庄の氏神であり、美作の国式内社十社の内の佐波良神社にあたるのではないかとの説がある。 明治初年までは、秋の大祭に出原の八幡神社、川原神社、当社の三社が田中神社に立会い祭典が行われていた。 その他 幕末、当神社で評議の上百姓一揆を起す 慶応2年(1866年)から翌年にかけて、全国的に世直し一揆が多発した。中でも大規模だったと云えられているのが、津山藩領で発生した改政一揆であった。 大庭郡古見村の百姓らが氏神で評議の上蜂起し、それに近隣の村々が呼応して、上河内村に集まった百姓は約二千人といわれ、さらに人数を増やしながら津山城下に向かった。途中、挙母(ころも)藩坪井代官所役人らが津山藩側に願書取り次ぎを約束した為、一揆勢は止まった。津山藩側は、当座の手当米として一万俵を与えることなどを約束した為、無血解散となった。 諸建物改修 昭和43年 社務所改築 昭和50年 本殿・新八幡神社御屋根葺き替え 平成 元年 倉庫増築 御大典記念 駐車場整備 平成5年 幣殿・拝殿瓦屋根葺き替え 平成9年 社務所瓦屋根葺き替え 平成14年 駐車場舗装整備 岡山県神社庁真庭支部 |