形部神社は神阿多都姫命 佐波良神社は佐波良神
【例祭】10月9日 秋季大祭
【社格】形部神社は旧県社 佐波良神社は旧郷社
【由緒】貞観6年(865)8月15日従五位上
保延4年(1228)12月造営
正嘉元年(1257)4月造営
文明8年(1476)10月造営
嘉永3年(1850)11月造営
【関係氏族】和気氏
【鎮座地】(佐波良神社)もとは大庭郡美和郷にあったと思われる(湯原町湯本か?)
(形部神社)もとは大庭郡河内郷にあったと思われる
現在の地に遷座の経緯不詳
【祭祀対象】
【祭祀】
【社殿】本殿流造銅板葺
拝殿・幣殿・社務所・神輿藏
【境内社】
【佐波良神社】本殿向かって左が当社。古墳の頂上にあり。和気清麻呂が美作国の国造に任じられたとき其の祖を祀った。 【形部神社】本殿向かって右。 美作国大庭郡の式内社8座はこの狭い地区に集中して鎮座している。佐波良神社と形部神社は「形部神社 佐波良神社」として合祭されており、壱栗神社(2座)・久刀神社・菟上神社・長田神社の4社は下流の二タ宮(フミヤ)に鎮座し、残る横見神社だけが4社の西南100mの位置に鎮座している。 この8座は元來大庭郡のあちこちの郷に散在していたものをこの地に統合したものであると思われる。 |
佐波良神社・形部神社 佐波良神社(湯原町) この神社は、社川の上流の谷口大社の地に、形部神社と相殿で祭られている。もと郷社。地元では、通称“四の官”と呼んでいる。 この神社は、もとは大庭郡美和郷にあったといわれる。美和郷については、現左の真庭郡湯原町湯本辺りとする説もあるが、不詳である。諸書の伝えるところでは、和気清麻呂の高祖父の佐波良を祭った神社であるという。和気清麻呂(733〜99)が、弓削道鏡の失脚後、第50代桓武天皇の信任を受け、備前・美作両国の国造に任ぜられたのを機に、その祖である佐波良を祭神に当てるようになったものと推測されている。 従って、主祭神は佐波良命とされ、社殿の西(向かって左)側に祭られているという。 この神社と和気氏を最初に結び付けたのは、『作陽誌』(1691)とされている。『作陽誌』は、この社地区に祭られている八座とも祭神は分からないとしながらも、和気清麻呂の高祖父・佐波良、曽祖父・伎波豆、祖父・宿奈、父・平麻呂、それに清麻呂の5人が、備前・美作両国の国造という実封のない官職を追贈されたことをもって、佐波良を祭るのではないかとしているが、『大日本史』(1848)でははっきりと、主神は佐波良命であるとしている。 また、他の七座の祭神について、『作陽誌』は前記のとおりであるが、『大日本史』は他の祭神もすべて和気氏ゆかりの神であるとする説を載せている。 |
佐波良神社・形部神社 形部神社(湯原町) この神社は、美作国の式内社十社のうち、七社(八座)までが集中しているこの地区の中で一番東端に位置する、真庭郡湯原町社字谷口大社一二七二番地にあって、佐波良神社と相殿で祭られている。もと県杜。地元では、通称“五の宮”と呼んでいる。 この神社は、古くは大庭郡河内郷にあった(『大日本史』)といわれる。河内郷は、現在の真庭郡落合町の東部、上河内・下河内の地域に当たる。 祭神は、神阿多都姫命(瓊々杵尊の后。大山祇命の娘)とされている。 社殿は南面して建てられており、本殿の向かって右側を形部神社、左側を佐波良神杜としている。本殿は、正面三間・側面二間、流れ造り・銅板葺き(もとは桧皮葺き。昭和34年=1959に銅板葺きに改修されたもの)である。 この本殿は、もとは現在の拝殿の位置にあったが、大正末年に大改築が行われ、現在のところへ移築されたものである。その工事のとき、本殿が古墳の墳頂部にあったことが分かった。 古墳からは、土器多数が出土し、その中には鉄滓の入ったものもあったという。 境内の末社には、荒魂神社(祭神・須佐之男命)、大山祇神社(祭神・大山砥命)、剣上神社(祭神・武甕槌命)、宮茂神社(祭神・不詳)、祖霊神社(祭神・不詳)の五社がある。 境内には、推定樹齢600年の大杉三本のほかに、とち一本、もみ二本の巨木がある。 |
佐波良神社・形部神社 由緒 当社は形部神社と佐波良神社の相殿神社で、古くから布施圧の大社と呼ばれた、佐波良神社の御祭神の佐波良命は奈良末期〜平安初期に活躍した和気清麻呂の高祖父で備前美作の国造である。そのことからこの社地区の神社は垂仁天皇から続く和気氏の祖先を祀る神社とする説もある。『三代実録』に貞観5年(864年)8月15日に佐波良・形部ともに従五位下から従五位上に進んだことが記されている。祭祀料田や縁故地など多く、大治3年(1128)・天承元年(1131)・元暦2年(1185)・文治2年(1186)・文治5年(1189)・承元3年(1209)・建暦2年(1212)・嘉禄2年(1226)・貞応2年(1223)・文永9年(1272)・貞治4年(1365)・応永7年(1400)の書状が京都の仁和寺にあり、年貢納入など関係を伝えている。朝野武門の崇敬が篤く、殊に森忠政が美作国主に封せられてからは当社を崇敬し累代社殿の造営や神田の寄進を行い、森長武公自筆の中臣大祓が奉納されたと伝えられる。その後松平・三浦家の崇敬を受けて社殿の造営を行っている。明治14年(1881)6月10日に県社に列せられ、幣帛料共進の神社に指定されている。明治44年(1911)頃に地域の無格社の「劒上神社」「宮茂神社」「大山砥神社」「夜霊神社」「愛宕神社」「荒魂神社」「大草荒神社」「田井荒神社」を合祀している。大正の頃の調査で本殿が古墳上に建築されたことが判明している。 その他 近隣地域内に当社と関連を持つ「大社やしき」「門田」「中門」「御道路」「舎人川」「権禰宜」などの地名があり、古くからの大社として崇敬を集めていたことを物語る。また「神馬塚」「馬わたり」の地名もあり、神馬を飼育して祭事には佐波良神社は神馬、形部神社は神輿と別々に神幸していた。 佐波良の大杉 樹齢900年を越えるといわれる杉で樹高43m、幹周囲10mの巨木である。2003年のNHK大河ドラマ「宮本武蔵」では武蔵が吊るされる場面に使用されている。 岡山県神社庁真庭支部 |