小川の南岸、芦ヶ池の西北に位置する。 かつては現在地より水際に鎭座していたという。 中世から近世初頭にかけて衰亡の極に達し、殆ど廃滅状態であつたが、寛文頃、田原城主三宅康勝によつて再興された。 |
由緒 阿志神社神社の最古の記録は「文徳実録」に「仁寿元年(851)冬10月従五位下を授く」とある。「延喜式神名帳」にも「渥美郡一座阿志神社」とあり、郡内唯一の式内社となっている。阿志神社の源は、大和朝廷に文化・技術をもたらした渡来人の阿智使主を祖神とする奈良県明日香村の於美阿志神社とされている。 戦国時代から江戸時代初期にかけては荒廃していたが、寛文四年(1664)田原藩主となった三宅能登守康勝公により再興された。夢枕にたった神様からお告げがあったとされており、領内三十三ヶ村に命じて社殿を造営し、灯籠二基を奉納した。代々の藩主も篤く崇敬し、参勤交代の祭には参拝して道中の無事を祈ったと伝えられており、大草村から伊良湖村に至る表浜一帯が氏子であった。 明治12年の拝殿建替えの際には瓦に「神代文字」が使われたが、これは全国にも例を見ないものであり、今回の建て替えでも踏襲した。また国学者羽田野敬雄らによって「伊良湖阿志両神社道」の道標が東海道二川宿に建てられ、現存している。 文・小野田勝一 平成11年10月吉日 阿志神社拝殿建設委員会 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
阿志神社 阿志は假字也○祭神詳ならず○和地庄芦村に在す、今神明と称す、(二葉松、私考略、)例祭 月 日 類社 伊賀國山田郡葦神社の條見合すべし 神位 文徳實録、仁寿元年10月乙巳、「参河國阿志神授從五位下、國内神名帳云、正三位阿志大明神、 神社覈録 |
郷社 阿志神社 祭神 不詳 創立年代詳ならすと雖も、本郡唯一の延喜式内社にして文徳実録に「仁壽元年10月乙巳、授参河國阿志神從五位下」と見え國内神名帳に「正三位阿志大明神(式内)座渥美郡」と見えたり、往昔は上下の崇敬社にして、社頭隆盛なりしが、近古著く衰頽の境に陥り、殆んど廃絶の姿なりしを、寛文10年5月、時の田原城主三宅能登守康勝、霊夢に依りて、社殿を再興して社領五石を寄進す(近古八王子社を加て、当地の産土神と崇祀せしが、是より当社を産土神とし八王子社を末社とす)爾来代々の帰依厚からき、当社蔵する所の三宅氏寄附証文に云く、 「阿志神領新田畑高五石之事、任先判旨令寄附畢私領中全可収納者也、 延喜2年正月23日三宅備後守康徳」 明治5年郷社に列せらる。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、を具備し、境内地396坪(官有地第一種)あり、老樹鬱蒼として、昼尚暗し、社頭の石灯の銘に云く、三州渥美郡阿志神社御宝前、寛文10庚戌歳5月4日、田原城主從五位下三宅氏能登守康ロ」 と刻せり、因に当社祭神に就ては古来諸説紛々今に定まらす、左に官社考集説に収録する所を転載して後考を俟つ、 社説、祭神木花開耶姫 社人大庭氏云、古き棟札にはウガヤ葺草葺不合尊とありといへり 或記云、阿志大明神 政香本、廷経首書云、阿知使主、又云、渥美郡名出自葦津姫神名 三好本云、拷幡千々姫命 佐野本云、社家説云、内宮同体神也、 明治神社誌料 |