上ノ郷城址南東に鎮座する。 天智天皇の代に創建とされている。 「アカヒコ」の社名から、伊勢神宮に貢納された三河赤引の糸との関わりがあると指摘されている。 |
由緒 総国風土記参河国宝飯赤孫郷赤日子神社圭田三十束三毛田 天智天皇甲戌9月始奉圭田加神礼有神家巫戸等(1267年前) 延喜式神名帳に参河国宝飯郡六座並小赤日子神社文徳実録に仁壽元年冬十月乙巳授参河国赤孫神社従五位下(1076年前) 三代実録に清和天皇貞観7年12月26日癸酉授三河国従五位下赤孫神従五位上(1062年前) 国内神名帳に正二位赤孫大明神式内座宝飯郡早くより朝廷の御崇敬厚く国司領主地頭等尊敬も厚く寄進状十数通あり 明治5年郷社に列せらる 明治12年7月改めて十有五ヶ村(三谷、牧山、五井、平田、小江、府相、新井形、竹谷、鹿島、拾石、西迫、柏原、清田、水竹、坂本)の郷社として崇敬せられたり 往昔当社より年々伊勢大御神の神衣を織奉る赤引の絲の調物を奉献りしにより其名著し 当社は雨乞に霊験顕芳なりとて伊勢の多度神社と併称せられ又養蚕の守護神として其名高し 明治40年10月神饌幣帛料供進指定神社に列せられたり 大正5年3月14日に県社昇格す 昭和7年1月久迩宮邦英王殿下より神社号御染筆の額御賜進あらせらる 昭和9年10月 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
赤日子神社の市指定文化財 大般若経 赤日子神社(式内社)に上ノ郷城主鵜殿氏が納経したと伝えられている大般若経六百巻である。その主体は版本で奥書に、此経板喜捨口入、江州佐々木新八幡宮専、為上酬四息下資三再無辺法界広大琉通者、康麿元年(1379)己未八月七日、幹縁比丘尼勝源、願主当国大守菩薩戒弟子崇示とある。不足している巻は写経で補つている。 永享2年(1430)定誉・長享2年(1488)諛旭尋がある。 昭和32年1月10日指定 大和絵襖 江戸時代後期の十九世紀中頃に郷土の画家、永島岸翠が、雪景の水辺にあそぶ丹頂鶴と、荒波の上を舞いながら眼光鋭く見渡す鷲二羽を、それぞれ八枚、計十六枚のすすまに描いた豪壮かつ繊細美を感じさせる作品である。 永島岸翠は、文化12年(1815)神ノ郷村字向山に生まれ、本名を庄八と称した。 幼い頃から絵にすぐれ、後年、越前に住む守岸駒の高弟であった岸良の門に入つて修行をつみ、永島岸翠と号した。江戸時代後期の郷土における最も卓越した画人である。 この襖絵は、当時の赤日子神社の氏子であった横山甚之助の依頼で神社に寄進したものと伝えられている。 昭和33年9月11日 指定 狛犬 赤日子神社本殿前にあつた一対で、高さ40cmの瓦様素焼の小さなものだが、温和の中にも威厳を感じさせる。「享保9年(1724)10月吉日、長沢村瓦師細井善六」の銘がある。 昭和33年9月11日 指定 石斧 最大長47cm、最大周囲40cm、重さ14.5Kgtで、大型の石斧である。士を掘ったり、物を切るのに使われたもので、弥生時代のものと推定される。 昭和33年9月11日 指定 現在4件とも蒲郡市博物館に寄託収蔵されている。 蒲郡市教育委員会 平成9年3月筆 社頭掲示板 |
上ノ郷城跡 蒲郡市指定史跡 上ノ郷城跡について 上ノ郷城の城主は鵜殿氏です。戦国時代.鵜殿氏は上ノ郷城をはじめ下ノ郷城・不相城・柏原城(すべて蒲郡市内)に分かれて住み、あたりを治めていました。 永禄5年(1562)2月、上ノ郷城は、三河統一をめざす徳川家康によって攻め落とされ、城主の鵜殿長照は討ち死にしました。この城攻めは忍者が活躍したことで知られています。落城後、家康は新しい城主として配下の久松氏をおきました。 現在の城跡は、主郭(本丸)や土塁(敵の攻撃をふせぐ土手)の残りもよく、昔の姿をよくとどめています。市教育委員会では平成18年度から順次発掘調査を進めていますが.これまでに違物跡などが見つかり、今後の成果にさらなる期待がかけられています。 平成20年11月 上ノ郷城跡を愛する会 社頭掲示板 |
赤日子神社 赤日子は安加比古と訓べし、和名鈔、(郷名部)赤孫、(仮字上の如し)〇祭神豊玉彦神、(風土記)○上郷村に在す、(二葉松、私考略、)今清田上郷両村の本居神也、例祭 月 日○惚國風土記残欠云、赤子日神社、圭田三十九束三毛田、所祭海神綿積豊玉彦神也、安曇氏祝祭也、天智天皇甲戌9月、始奉圭田加神礼、有神家巫戸等、 令義解に、神服部等斎戒潔清、以参河赤引神調糸織作御衣とあるも当社に由縁ありと聞えたり、 神位 文徳実録、仁寿元年10月乙巳、参河國赤孫神授從五位下、三代実録、貞観7年12月26日癸酉、参河國從五位下赤孫神授從五位上、同18年6月8日癸丑、授参河國從五位上赤孫神正五位下、」国内神名帳云、正二位赤孫大明神、 神社覈録 |
郷社 赤日子神社 祭神 彦火々出見尊 赤日子一に赤孫と書す、創立年代詳ならずといへども、延喜式内社にして、現に文徳実録に「仁寿元年冬10月乙巳、授参河國亦孫神従五位下」と見えたり、神位は更に、三代實録に、清和天皇貞観7年12月26日癸酉授参河國従五位下赤孫神従五位上、同18年6月8日癸丑授参河國從五位上赤孫神正五位下、」と見えたるが、国内神名帳には、正二位赤孫大明神」と見えたり、近世絶えたりといへども、往古は伊勢神宮神衣祭の御料に、当社より調の糸を奉りしにや、合義解に「孟夏神衣祭云々以参河赤引神調ノ糸織作神衣、」と見え、大神宮雑例集に、「神御衣糸、事、任令條并度々宣旨、以三河国赤引神調御糸、可被奉織之由、載于一紙同経言上」と見えたり、近世除地一石二斗清田上之郷二ケ村の産土神なり、明浩5年郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、宝庫等を具備し、境内地1684坪(官有地第一種)あり、当社祭神に付き、特選神名牒に云く、 「令義解に、神服部齋戒潔清、以三河赤引神調糸織作神衣」とある赤引と赤日子と音相近く由ありて聞ゆるを思ふに、神服部氏の神々を祭れるには非じ歟、」 と、神祇志料又云く、蓋参河國神服部の祖神を祭る」と、學者多く是認するが如し。 明治神社誌料 |