莵足神社
うたりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】莵足神社 三河国 宝飯郡鎮座

   【現社名】莵足神社
   【住所】愛知県豊川市小坂井町小坂井宮脇 2
       北緯34度47分51秒,東経137度21分56秒
   【祭神】菟上足尼命
       社伝に祭神はもと品陀別命、天武天皇の白鳳年間から菟上足尼命という。

   【例祭】4月第2日曜日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】雄略天皇の時創建
       白鳳15年4月11日祭神を品陀別命菟上足尼命とし現地に遷
       貞観6年(864)2月19日従五位下『日本三代実録』
       応安3年(1370)11月日付の鐘銘あり
       応永24年(1417)修造
       天文12年(1543)修造
       元亀元年(1570)修造
       明治4年7月郷社
       大正7年11月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】初め平井の柏木浜に祀られた
        白鳳15年4月11日現在地へ遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【参考HP】 菟足神社の風祭り
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・手水舎

   【境内社】八幡社

こさかい駅東に鎮座する。
雄略天皇の時代に穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが、間もなく当地に御遷座になった。
春祭(風祭、生贄祭)の人身御供の話は『今昔物語』に記載されている。
「菟足(うたり)神社の大祭の日にこの橋を最初に渡る若い女を生け贄にする風習があった。男が生け贄を狩りに行くと不運にも自分の娘が来たではないか。男は,「自分の子だが」生け贄にした。」


由緒

「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木濱に宮造して斎ひまつりしを天武天皇の白鳳十五年四月十一日(昭和五十二年より千二百九十一年前)神の御おしえのまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。はやく正六位上の神階を授け給ひ貞観六年二月十九日従五位下に進められしが國内神名帳には正三位と記されたり(中略)。 徳川幕府の世となりて家康親しく参拝して神領(九十五石、制礼寄進)を寄せしより累代の将軍も其の例に倣ひ領主藩主等の尊敬の尋常ならざりしこと社記に詳なる所なり。
明治維新の初天皇御東幸のみぎり勅使をして幣帛を捧げしめ給ひしはいとも尊く、かしこき極にこそ(中略)。
斯る由緒ある神社(中略)なりしかば大正七年十一月二十二日県社に列せらるる事となりぬ(中略)。此の事の由を永遠に伝へむと大神に仕へ奉る社司川出直吉ぬしの請へるままに其の大むねを識すになむ。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




莵足神社

鎮座地
愛知県宝飯郡小坂井町小坂井
祭神
菟上足尼命
社格 延喜式内社、旧県社
由緒
「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斉ひまつりしを天武天皇の白鳳15年4月11日(昭和52年より1291年前)神の御誨のまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。夙く正六位上の神階を授け給ひ貞観6年2月19日従五位下に進められしが國内神名帳には正三位と記されたり(中略)。徳川幕府の世となりて家康親しく参拝して神領(九十五石、制礼寄進)を寄せしより累代の將軍も其の例に倣ひ領主藩主等の尊敬の尋常ならざりしこと社記に詳なる所なり。明治維新の初天皇御東幸のみぎり勅使をして幣帛を捧げしめ給ひしはいとも尊く畏き極にこそ(中略)。斯る由緒ある神社(中略)なりしかば大正7年11月22日県社に列せらるる事となりぬ(中略)。此の事の由を永遠に伝へむとて大神に仕へ奉る社司川出直吉ぬしの請へるままに其の大むねを識すになむ。
大正8年11月22日熱田神宮宮司従五位勲六等野田菅麿、文。
年中行事
【御田祭】旧正月7日午後6時。
宮司、作り大將(祢宜)、作男(氏子総代五人)。宮司は行事中、拝殿の蓬莱山飾り(雪の三階松、山は牛の舌餅)の前に着座、祈念をこめる。古風な祝詞の斉唱から始るが作大將が一々神意をうかがって庭上の作男に伝え、田打、籾まき、鳥追から稲刈、稲の敷、稲ぶらまでの行事を唄としぐさで行なう豊年の予祝行事。昭和29年、県の無形民俗文化財に指定された。
山車。小坂井の山車の前にならぶ峠姿は大年行事、法被姿は小年行事である。本祭りには屋上に尉姥の人形を飾って曳き入れ、宿の山車も人形を飾って御旅所前に曳きつける。
共に稚児獅子舞とその音楽が屋上で奏される。
田植神事。古くは名称の通りと思われるが新暦の結果、現行は種まきになっている。神田の苗代に籾まき中、所役は太鼓を乱打する。
神前に著座の宮司はそれを聞いて、ひそかに雀を内陣に献じ豊作祈願の祝詞を奏する。平安中期の今昔物語には風祭に人身御供の代りに猪を生きながらおろして献ずるとあるが後には雀十二羽に改まり、現在も雀射初神事、射収神事を行っている。名称の風祭は風鎮め祭りの意味であらう。
平井の行列。本祭りに平井からくり出す行列は大榊を先頭にお鉾、年行事、笹踊、笠鉾四台(曳き手は児童)、警固、大注連の順序。
この大注連は第一鳥居(元禄四年吉田藩主小笠原長重寄進)に奉懸され、お鉾は鳥居内から眞直に立てられ、三百米の参道の地上を摺って進行する。お鉾は太さ九寸長さ四間半の青竹の竿頭に三尺五寸の鉾先をつけたもの、二本の綱であやつって決して倒さない。笹踊は鳥居内からは笠鉾の次となり、そのあとから若衆が一団となって唄(歌詞の一番、大明神諸神しめを引やく、八百前神もそんよそよう)を囃し叫んで、もみ合い、もみ合いして供奉し神前にくり込む。前庭を三廻して退出、御鉾も御旅行へつづいて神輿神幸となる。
神輿。徳川初期延宝6年江戸在住の氏子伴庄左右ヱ門外数名からの寄進。江戸で組立て船にて遠州灘を無事乗越えて伊良湖に着船したと伝える。
巫子神楽。二人の巫子舞(児童)、楽人は笛二人、大太鼓兼小太鼓一人、小太鼓一人である。宿字中島の神楽の家元榊原忠太夫の振付作曲であろうと伝える。可憐清楚な舞、都びたゆかしい音楽である。宵祭の式花火が終ると神楽殿で始まり、本祭の本社祭典献幣使参向、御旅所祭典にも奏される。
【摂社八幡社祭礼】旧8月15日。元禄の神社本縁には別宮とある。土佐八幡宮とも称した。徳川初期寛文4年新造の棟礼あり。投餅、少年剣道大会でにぎわう。
社宝
【大般若経五百八十五巻】願主は藤原朝臣宗成、筆者は僧の研音智。奥書によると筆立は平安末の安元2年2月、擱筆は治承3年8月、書写の場所は京都、摂津、九州、肥後國で、転々としながら三年五ヶ月で書き上げている。一日に一巻、二日に一巻或は三日に一巻という驚くべき能筆である。当社の有となったのは鎌倉末か、南北朝初期かと推定される。昭和36年6月30日国の重要文化財に指定され、同42年から修補にかかり、この間、収蔵庫も新建されたので四十八年秋、庫内の総桐大篭笥の引出に十巻宛(昭和新補写経共)納めて格納された。本経は室町末から遠州奥山半僧坊の僧を招いて転読があり、徳川期からは毎年宵宮祭の朝、郡内の古刹財賀寺の転読のあった古例を興し、昭和23年から旧4月11日の旧祭に大般若転読講会を行なうこととして今に至る。
【梵鐘】〔銘〕参河国宝飯郡渡津郷菟足大明神洪鐘右為志者天地長久御願円満国土安穏諸人快楽所奉鋳也。勧進聖見阿弥陀仏、大工藤原助久。応安3年庚戌11月日。昭和39年10月14日県の有形文化財に指定された。
【古面】九個のうち、獅子面二、男面二、鬼面一は昭和40年5月21日県の民俗資料に指定された。素朴な彫刻ではあるが何れも表情には雅致をたたえている。
【棟礼】〔文〕奉再興上葺菟足大明神御宝殿一宇、応永24年丁酉11月三3大檀那左京太夫源義範併源範久、代平沙弥玄永、祢宜菅原定永、大工平則光(義範は三河国の守護で、吉良一色城主、玄永はその家臣で、牛久保一色城の城代である)。右の棟札を最古とし元治元年の棟札まで二十六枚が保存されている。
【懸仏】年代は未詳であるが八十八体保存されている。中には線刻のものもある。何れも維新の神仏分離までは内陣にかかっていたものと伝える。
【由諸記一巻】〔奥書〕干時元禄7甲戌暦10月21日卯日此壱軸令書写之奉神納者也、神主川出宮内少正六位上宗直敬白。題箋には菟足神社本縁一巻とある。創立の由緒、年中行事等が詳細に記載されている。
伝説地
【子だが橋】(碑文)子だが橋の碑、文学博士是沢恭三書。〔背面〕昔この橋のたもとに人身御供を得んとて捕えてみれば我が子なりしと云う哀れ物語のありしところ、のちの世に伝へむとす。昭和三十八年正月菟足神社宮司川出清彦。橋は東海道にかかっており、そのたもとでころぶと袖をちぎって川に流すという袖もぎ伝説もあったが橋は今はない。川(境川、精進川に当る)の流れは形ばかり、そこには片葉の葦だけ多少残っている。
【沈鐘伝説地】応安三年の梵鐘が発堀されたという地。今一鐘なおありともいわれている。一本榊は八町神明社鬼祭の榊が昔は毎年ここに納められたがそのうちの一本が根ずいたものと云う(現在のは補植)。上古はここ眼下一帯の田は沼沢もある入江で、鎌倉頃までは歌枕でも有名な鹿菅の渡と称し(しか、すか、共に洲を意味する方言)、小坂井坂下から満潮時は渡船で対岸に渡ったものである。また、この台地には菟足神社貝塚をはじめ古代遺跡が多い。
郷土玩具
【面能風車】里謡に小坂井祭りのお土産は鍾馗、面能に風車といわれて著名である。鍾馗は除災、お多福は招福、風車は無病臭災諸事廻りよく運ぶに通じ開運豊作の意味を持つとしてよろこばれる。
菟足会館
昭和37年建設、聞口十二間、奥行四間二尺、コンクリート平屋根、広間二十五畳、来賓室八畳六畳、予備室同上の建物、その後地下に椅子席も設備され、爾来結婚披露宴、諸会合に利用されている。
【風祭(例大祭)】4月第2土・日。
式花火。午後の宵祭に備えた手筒、玉火を下げて小坂井の年行事が奉献する。山車の上の稚児獅子舞も始まって、やがて木遣音頭で山車を社頭第二鳥居前から曳き出す。宿の山車も同時宿から曳かれる。打揚花火、手筒大筒乱玉、仕掛花火など三河煙火の粋と意気が見られるのはこの宵祭(土曜日)の午後からである。

社頭掲示板



菟足神社貝塚

この貝塚は、神社境内および隣接する川出氏宅の敷地一帯に広がる。故川出直吉氏は明治三十年代から貝塚を発掘し、遺物の採集に努めていた。このため平井稲荷山貝塚とともに早くから学界の注目を集め、大正十一年には京郁帝国大学の故清野謙次博士が発掘調査をされた。
また、最近では平成二年に町教育委員会が調査を行っている。
出土遺物はほとんとが縄文時代晩期の土器であるが、弥生土器や古墳時代後期の須恵器も見られる。しかし、最も注目されるのは、縄文時代早期(今から一万年から六千年前)の押型文土器と呼ばれる土器の破片である。
この種の土器は豊川右岸下流域では本貝塚でしか発見されていない。人骨は乎井稲荷山貝塚のように大量に出土していないが、川出氏の採集品の中には抜歯されたものがあった。
貝殻を形成している貝塚は、ほとんどがハマグリとシジミガイであり、場所によっては厚さ一メートル近くも推積している所もあり、町内の貝塚の中で最も保存状況が良い。当時は目の前を流れる川(現在の走川)の水運を利用して浜へ出て貝を採集していたのであろうか。また、遺跡の所在する周辺は南向きの台地で、斜面には天然の湧き水もあり、生活環境としては絶好の場所である。
川出氏の収集品は町郷土資料館で見ることがでさる。
小坂井町教育委員会

社頭掲示板




莵足神社

御祭神 菟上足尼命
創立 白鳳13年
穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが、間もなく当地に御遷座になった。
当社の大般若経55巻は国の重要文化財に指定(昭和36年)されている。僧研意智の書(1176−1179)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下のおり、洪水のため渡航できず、滞在7日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた)
なお慶安3年の銘のある梵鐘(昭和39年県文化財指定)は本社前の水日から発掘されたものであり、当時は今の□□社の位置に鐘楼があったことが天保時代の三河国名所図絵に出ている。
当時の□田の行事は県の文化財に指定(昭和39年)されている。例祭は4月第2土・日曜日に行われ、風祭りとして知られている。 また、祭礼の古面(5面)は昭和40年に県の文化財に指定されている。
打上花火、手筒花火は特に名高い。
小坂井町教育委員会

社頭掲示板




菟足神社と徐福伝説

今から二千二百年ほど前、戦国の中国を銃一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。
そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。 しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわかつていない。
ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。
それは次のような菟足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
1.熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。
・豊橋市白色町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」との言い伝えがある。
・牛窪記 〔元縁10年(1697)頃成立〕には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎之舟、此国湊六本松ト云浜二来ル。(中略)徐福ガ孫古座侍郎三州二移リ采ル故二、本宮山下秦氏者多シ…」とある。
2.菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記急碑(大正11年12月22日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は(中略)雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳15年4月11日神の御教のまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり  」と記されている。
3.菟足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。
古来菟足神社の神事には、猪の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀12羽を供えている。
以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を往来する人達の中かからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。
小坂井町教育委員会

社頭掲示板




文化財

重要文化財(国指定)
大般若経 585巻 - 1961年(昭和36年)6月30日指定
愛知県指定有形文化財
梵鐘 - 1964年(昭和39年)10月14日指定
菟足神社祭礼古面 5面 - 1965年(昭和40年)5月21日指定
愛知県指定無形民俗文化財
菟足神社田祭り - 1954年(昭和29年)3月12日



菟足神社の史跡と伝説

@石の鳥居
第一鳥居は、元禄4年(1691)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。高さ4.5m 明神形 銘は次のとおり。
右側
奉献石鳥居
三州宝飯郡小坂井村八幡宮前
左側
元禄辛未8月吉日 吉田城主従四位下侍従兼佐渡守小笠原長重 粛具
額の文字は、東征大総督有栖川宮輝仁親王の御染筆。
A宿中島太神楽奉納 石灯籠二基
小坂井町宿字中島は三河万歳で有名で、また伊勢神楽、獅子神楽の流れをくむ太神楽でも知られていた。太神楽は江戸時代末期に大流行し、近郷近在の秋祭りはもちろん、遠州方面への出稼ぎも盛んに行われていた。
鳥居両脇の石灯龍は、中島の太神楽惣連中が文化元年(1804)に奉納したもので、当時の太神楽の隆盛を偲ばせる。灯籠に十九名の太神楽連中の名が刻まれている。
B弁慶松の伝説と歌枕「しかすがの渡し」
弁慶が東行のおり、大雨で対岸へ渡れず渡津に逗留した時に植えた松と伝えられてきた。奈良時代から平安時代の十世紀頃まで菟足神社前は、大小の洲がある広大な入り江であり、対岸の飽海、坂津万面へは船で渡つていた。枕草子にも書かれた「しかすがの渡し」がどこにあつたのかは特定できないが、ある時期にはこの近辺にあったと思われる。
紀行文「いほぬし」増基法師(天麿10年頃956)の歌
しかすがの渡りにて渡し守のいみじうぬれたるに
 旅人のとしも見えなどしかすがにみなれてみゆる渡守哉
現在の松は、平成18年に植え替えられた。
豊川市教育委員会

社頭掲示板



菟足神社

うたりじんじや 愛知県宝飯郡小坂井町大字小坂井。旧県社。祭神は菟上足尼命を祀る。古くは八幡社・菟足神社とも称される。社伝によると白雉元年(650)考徳天皇の勅により平井村に創建された。のち天智天皇3年(664)この地に移したと伝えられる。また一説には祭神についても、初めは応神天皇を祀っていたが、神託により平井村から菟上足尼命を相殿にむかえて祀り、菟足八幡宮と称したともいう。大般若経の裏書によって天文頃(1533−55)は菟足宮宇佐大明神と称されたことが知られる。
『延喜式神名帳』に列し、近郷七力村の産土神として崇敬をあつめている、例祭は4月第二土・日曜日に「風祭」の名で知られ、古典にもその祭礼名がみられる。当日行われる手筒花火は三河名物の一つである。旧正月7日には「田祭」が行われる。社宝のなかに安元2年(1176)から治承3年(1179)にかけ、僧研意智が書写した大般若経が重要文化財に指定されている。

神社辞典



兎足神社

兎足は宇多利と訓べし〇祭神兎上王、(社伝)○度津庄小坂井村に在す、今兎足八幡宮と称す、(二葉松、私考略)、〇古事記、(開化段)日子坐王娶山代之荏名津比売、生子大股王、故兄大股王之子、曙立玉、次兎兄上王、(二柱)云々、
連胤按るに、爰に兎上王を祭り、碧海郡に肥長比売(日長神社也)を祭る事、垂仁段の故事は、国を隔つといへども由縁ある事なるべし、
神位
三代実録、貞観6年2月19日丙子、授参河國正六位上菟足神從五位下、國内神名帳云、正三位菟足大明神、
社領
三河国二葉松云、社領九十石、

神社覈録



郷社 菟足神社

祭神 菟上足尼命
旧と八幡宮とも兎足八幡宮とも奉称せり、創立年代詳ならすといへども、社記に「天武天皇朝蒙勅命白鳳2酉年菟上足尼命、同郡平弁村栢木濱之宮奉齋鎮、而後経十四年、依神誨勅秦石勝、自平井時令移祭于小坂井新宮、于時白鳳15年庚戌4月11日云々」と見え官社考集説に「宜隆云、今年天保12年8月、神主川出氏を以て祭神のことを問へるに、往古は品陀別命を祀りしを、白鳳年中神託によりて、平井村より兎上足尼命を迎へ奉り、相殿に祀りてより、兎足八幡宮と云、又別に瑞垣内にありては八幡宮なりと云へり」と見えだり、延喜式内社にして、三代実録に「清和天皇貞観6年2月19日丙子、授参河國正六位上莵足神從五位下」と見え、國内神名帳に「正三位菟足大明神」と見えたり、古來上は朝廷より下は地頭領主庶民に至る迄厚く崇敬の誠を致し、再建修営の挙屡、行はれ、今現に応永24年天交12年元亀元年の棟札を藏せるが、応安3年の銘を存せる古鐘の如きは最も世に著はる、又武蔵坊辮慶筆写と伝ふる大般若経を存せり、三川雀云「昔弁慶坊東下り、今橋断絶して七日逗留の中、大般若六百巻頓写して神へ奉納」ごといへるが、吉田綜録には「世にこれを武蔵坊弁慶の書写なりといへども其証なし」といへり。社領九十五右、諸社御朱印写に云く、
「八幡宮領、参河國宝飯郡小坂井村之内九拾石事、并社中諸役等免除、任慶長8年8月20日、元和元年2月2日、寛文13年11月9日先判之旨、永不可有相違者也、仍如件、
寛文5年7月11日」
と、小坂井、半井。下五井宿、瓜郷、横須賀、下地七ヶ村の産土神にして、明治5年郷社に列せらる、是より先慶応3年9月主上御東行の際勅使植松從三位雅言平田正六位延胤参向して奉幣ありたり、
社殿は本殿、拝殿、神饌所、社務所、祭具庫、神樂殿等を具備し、境内地1763坪(官有地第一種)あり、
当杜には古来4月11日に風祭と称するものあり、時に雀十二羽を祭牲とす、蓋雀は4月上旬より十日迄に射取るものなりと、吉田綜録に、
「祭礼毎年4月11日なり、風の祭と号す、雀十二羽を射取て贄となす、往古は小田が橋にて族人の児女を待うけて、人身御供となせしと云ふ、中比は猪鹿を献りしとも云り」
と見えたり、この事宇治拾遺物語今昔物語等にも見えたるが、三川雀に雀箭にあたりて血流るゝ時は、氏子に災難あるよし見えたり、因みに菟足の文字につきて、塩尻にも「三河國宝飯郡兎足神社は、國造本紀に、兎上足尼云々、莵足とは、文字を略て書、然ればうそこと称ふべきを、今うたりの神社と呼侍る、諸州神祠の號、其称号を正し、其元を知るべきなり、うかみ、たとかと横音通じ、みとりと又通へり、谷をたりとよむに似たり、然ればうたりはうかみの音便歟」と見えたるが、これに付き大日本地名辞書に云く、「信すべからず、若くは輪足の訛音にて、渡の義歟」と。

明治神社誌料



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