御津神社
みとじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】御津神社 三河国 宝飯郡鎮座

   【現社名】御津神社
   【住所】愛知県豊川市御津町広石祓田 70
       北緯34度49分21秒,東経137度18分39秒
   【祭神】大国主命
       『参河国官社考集説』大己貴命

   【例祭】4月第3日曜日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天武天皇の時官社となったとする
       仁寿元年(851)10月7日従五位下
       応永22年(1415)修造
       永享12年(1440)修造
       天正8年(1580)修造
       明治5年4月郷社
       同15年5月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「船洲(フナズ)御津明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       祝詞舎・渡廊.土廊・拝殿・神饌所・手水舎

   【境内社】稲荷神社・天満宮・祖霊社・磯の宮社・御鍬神社
        秋葉神社・富野御前神社・八幡社・船津神社・天地万神神社・招魂社


御津山の北麓、マルヤス御津工場南に鎮座する。
当社の御祭神は言い伝えによると伊勢から船に乗られて伊勢湾を渡って当地に着かれたといわれ、この時地元の漁師が採れたイカを献上したことから、祭礼には現在でも神前にイカを供えている。


御津神社

御祭神 大国主命
御由緒
創立年代不詳なりと雖延喜式神名帳三河国二十六座の一となし三河国神名帳に正三位御津大明神として載せる。
天武天皇4年2月圭田56束を奉納し給ふ。文徳天皇仁寿元年従五位下の神階を給う。
当三州刺史源義範は応永22年御神殿を再建し永享11年之が御屋根葺替□奉る。
享徳元年御津庄刺史細川兵部省輔は□□を献納し天文15年当庄刺史牛久保□保成御社殿屋根葺替を成し奉り。
明治14年10月有栖川□仁親王殿下神社号の御染筆を御勧進あらせらる。
明治22年内務省より御本殿保有資金として金一万円を下付さる。
当社は往古御津・□□・森下(中略)十二ケ村の総氏神であったが明治5年更に(中略)十八ケ村崇敬の社となる。
神領は中古75石を有し今尚小字□田、□田、神子田等の名を残す。
別宮石畳神社□□□□野村社御船王神社は大字畳沢に境内社たる磯宮神社船津神社は当社境内に鎮座在り、孰れも当社御祭神と深き関係を有せられる。
明治5年4月郷社に列せらる。
明治15年5月県社に列せらる。
明治40年4月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
昭和24年六級社に指定せらる。
例祭4月17日

社頭掲示板



御津神社

祭神 大国主命
祭礼 烏賊祭
例大祭 4月第三土曜日(かつては、春祭として執行。烏賊を献供)
    4月第三日曜日(かつては、旧暦9月16日、17日)
縁起  創建は不明。『延喜式』では三河26座の一つの「式内社」、『神名帳』には「正三位御津大明神」とある。伝承によれば、祭神は御舳玉・磯宮楫取・船津各大神等の随従で船津へ着いたとされ、棟札や梵鐘等によって三河守護や土豪との関係がわかる。当社は御津七郷十二ケ村の総産土神と崇められ、明治5年に郷社に列せられ、明治15年には社殿が造営され、県社に昇格した。
文化財(町指定六点)
梵鐘 享徳元年(1451)願主は藤原政家。高さは89.4cm、口径53.9cm。梵鐘が神社にあるのは珍しく、当時の地域の在地領主と守護との関係がわかる。
鰐口 @ 永禄元年(1558)に大工南金屋宗次により製作。付近の土中から出土したといわれる。
  A 万治3年(1660)に北金屋村の中尾作左門重次が製作。「御津庄船玉大明神」(船津神社古称)に氏子衆が奉納したもの。
   B 延宝2年(1674)大恩寺第二九代鸞誉上人によって奉納された。
大般若経 現存111巻及び巻数不明の料紙699葉。多くは、永和年中(1375〜79)に、新城市富岡にある富賀寺などで実鏡らにより書写されたもの。
クスノキ 当社の神木で、樹齢千年を越え、町内最高齢の樹木と推測される。目通り9.25m、根回り13.64m、樹高21.0m。
その他 当社には金割・灰野地内の入会山騒動をめぐる「平野・竹本義人碑」「山林分割記念の大鏡」や、国学者羽田野敬雄ゆかりの「肖像祭の軸」「皇学四大神の神歌碑」御津神社道の「道しるべ」二本もある。
平成11年11月
豊川市教育委員会

社頭掲示板



御津神社

御津神社の祭神は大国主命で、創建年月は西暦以前にさかのぼるといわれ、あまりにも古く記録がないため不詳です。  
御津町の歴史も古く、8代天皇の孝元天皇(西暦前200年)が当国の行幸の時に、御船を此の津に寄せられたことから、当地を御津湊とされたことが惣国風土記に記されています。 その時、天皇は既に此の地にあらせられる神社に対し、御津神社の名を賜ったとされています。
境内にそびえる大楠は神社のシンボルで、樹齢1,000年を超える町内最高齢の樹木です。

豊川市観光協会



天満社御由緒

御祭神 菅原道真公
古老の伝えるところでは、当社は京都の北野天満宮より勧請されたものといい、もと越川七七ノ一に鎮座せられたが明治8年12月(1875)この御津神社境内に遷座せられた。
御祭神は承和12年(845)の御生まれであって御津神社における当社の御創立年代は不詳であるがもっとも古い棟札の裏に寛文10年7月(1670)に造り替え奉ると記されており、この時既に造り替えが必要なほど傷んでいたということでかなり以前かの御創立と認められる。この棟札の裏に金一両に付き米八斗五升、麦二石金一分(四分で一両)で稗三石二斗あわ五斗五升と物価を伝えているのは興味深い。
御祭神は学問の神様、書道の神様として尊崇せされ、ことに霊験いちじるしく神社近郷において国学者 羽田野敬雄を始め多くの学者、教育者等の輩出しているが御祭神の御霊験によるものと拝察せらる。最近社殿の腐朽がすすみおそれ多いので氏子各位の赤誠により今年昭和59年に再建されるに至ったものである。

社頭掲示板



義人平野源蔵竹本庄右衛門顕彰碑

孔子曰く、志士仁人は生を求めて以て仁を害すること無く、身を殺して以て仁を成すこと有りと。我が義人平野竹本両氏が郷党のため挺身尽瘁せられた行為のごとき最もこの言にちかしというべきではなかろうか。江戸初期、金野地区に入会山があって、金割、灰野、森下、茂松、西片、泙野、大草、赤根、丹野、山神、及び大塚の12ヶ村の共有であった。300年前、たまたまこの入会山に関し紛争が起こり、時の灰野、金割の代官仲田八左衛門は、この紛争を藉りて一挙に各村の入会権を抹殺せんと企てたが、他方、平野竹本両氏は広石の庄屋組頭の職にあって残る9ヶ村側の利益代表としてこれに対抗し、入会権の存続に努力し、遂に最後の手段として牛久保代官所鈴木八右衛門に直訴したところ、直ちに同所牢獄に入れられ罪を待ったが、時を同じうして代官仲田八左衛門より、この両名は幕府官林の盗伐をしていたとの報告が出されるに及び、遂に寛文9年10月8日灰野村字青木という所で斬罪に処せられたのであった。一方、幕府代官は独自で盗伐の件を捜査していたところ、事実無根の虚報であることが判明したので急遽馬を走らせて、赦免状を刑場に達せしめたが既に両氏の頭手処を異にした後であったという。
ああ、何事ぞ、その生命白刃の下に消え去る。痛恨これに過ぐるものがあろうか。しかし、両氏よ、その願望たる入会の権は確保せられその目的は達成されたのである。在天の霊、意あらばもって瞑すべきであろう。9ヶ村の農民はその死を哀悼し供養として大恩寺、浄宝寺、大正寺、海音寺に祠堂金を納め、永くその冥福を弔らい且つ後年嘉永年間受益の村々は広石の大日墓地に立派な墓碑建ててその霊を祭ったのである。
後に、明治9年改租が行われたとき、入会山の面積は56町7反7畝10歩であったことが知れたが、これ偏えに平野竹本両氏が身を殺して入会権を守った賜物に外ならなかった。その後、明治12年になってまた入会山の争いが再燃したが、このとき金野、豊沢、広石、西片、泙野、大草、赤根の村々は両氏殉難の時代から伝えられてきた入会山の特殊事情を裁判所に説明し、裁判所もこれを諒として改めて共有権の確認を決定した。ここにおいて両氏の英霊を御津神社境内に合祠し酬いるところがあったが、さらに、明治27年各村相議し共有山の分割盟約書を作り、戸数に応じて各村へ分割を行った。その後、広石においては大正11年さらに個人の所有権に切替え、一部を御津神社の所有に帰せしめ、ここに漸く一切が落着を見るに至った。
右は昭和10年、郷土史に造詣の深かった服部美次翁が調査した文書をわかりやすく書き改めたものである。
今回、共同社会生活の拠点となるべき広石公民館の完成を記念し、死を賭して共同社会利益のため奮闘した両氏の偉業をしのび、顕彰碑を建てて後世に伝えその功に報いんとするものである。
   昭和59年4月吉日           広石共有山整理委員会建之

社頭掲示板



御津神社

御津は假字也、和名鈔、(郷名部)御津、(美都)○祭神下照比売、(風土記)○御津郷廣石村に在す、(二葉松、私考略、)例祭月日〇惣國風土記残欠云、御津神社、圭田九十六束、所祭下照比当轣A天武天皇4年乙亥2月、始奉圭田加神禮
二葉松云、御津湊、始孝元帝行幸于当国之日、奉寄鵠首於此津、因茲号御津湊、後埋其湊無潮汐之期、絶回舶出入之便、
類社
出雲國楯縫郡御津神社
神位
文徳実録、仁寿元年10月乙巳、参河國御津神授從五位下、国内神名帳云、正三位御津大明神、

神社覈録



縣社 御津神社

祭神 大國主命
創立年代詳ならず、但参河國官社考集説に云く、
「村老の説に、当社の神は御鎮座の時伊勢より船にて上り給ひしなり、其御船の著し処を船津と云、そこに舶津大明神あり、(神主神道氏ノ東一町許ニアリ)、又磯宮揖取大明神と云あり、(社地ハ茂松村ノ境二有デ、磯之宮神明トイフ、コレ國内神名帳ニ載タル磯之宮ノ神ナルベシ、)こは其時揖を取り玉ひし御供の神なり、又茂松村の産土神を御舳玉大明神と云、こも御供の神なり、今其社に其時の御船なりとて、くりぬきの古き木船ありとぞ(いづれも御津社摂社なり)」と、延喜式内社にして、文徳実録に「仁寿元年冬10月乙巳、三河国御津神授從五位下」と見え、國内神名帳に「正三位御津大明神」、と見えたり、社領は元と七十五石を有し、今其名残として、字に祓田、ねく田、神子田等の地あり、古来御津庄七郷即ち廣石、森下、茂松、灰野、金割、西方、平野、大草、赤根、大塚、丹野、山神の十ニケ村の総産土神たりしが、明治5年郷社に列せられ、更に15年5月縣社に昇格す、明治維新以来氏子の離合町村の併合等ありて、現今の氏子は廣石豊記のニケ村の氏神だり、
社殿は本殿、相殿、神供所、祭文殿、祝詞殿、霊祭所、社務所等を具備し、境内地2455坪(官有地第一種)あり、当社には応永、永享、天文、天正の棟札及享徳元年の洪鐘を蔵せるが、慶応3年御津山に於て発掘せられし鰐ロに、
「奉懸鰐ロ惣庄大明神御宝前 三州宝飯郡御津庄信心衆等
于時永禄元戊午8月吉日禰宜(成政氏成守説)大工南金屋宗次と見えたり、因みに当社の御神詠と称するもの三川藻塩草に見えたり。
「大鳥や千世の松原いしたゝみくつれゆくとも我は守らん』

明治神社誌料



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