大沢山東麓に鎮座する。 もとは「山下東南ノ方ノ平地」に鎭座していたという。 松平紀伊守が領主の時、今の山上に遷したという。 往古天児屋根命苗裔形原千方公が欽明天皇11年東夷鎮定の大将となり当地に下向して創立という。 |
由緒 往古摂政藤原千方公大和より勧請34代舒明天皇11巳亥(皇紀1299年西暦634年)神礼加列圭田五十五束を奉らる 。 形原郷の総氏神で荘園時代に栄えた神である。 三河国内神明帳 形原明神帳 三河国官社私考 春日大明神 明治4年5月 郷社 大正12年8月17日 県社 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
形原神社略記 所在地 愛知県蒲郡市形原町八ヶ峰39 埴安大神 朝廷別王命 境内神社 祭神 誉田別命 白山姫命 豊夷姫大神 由緒不明 天児屋根命 神社明細帳(県庁にあるもの) 愛知県管下三河国宝飯郡形原町大字形原字大明神山 式内社 祭神埴安神 由緒 延喜式神明帳巻九二曰ク形原神社 並小 三河国神名録二曰ク従四位下形原明神式内座宝飯郡 總国風土記第六十九三河国宝飯郡形原郷形原神社圭田二十五束祭所埴安大神也皇極天皇元年壬寅十二月圭田を奉り神礼を加ふ 又當神社古記録に曰く 往古天児屋根命苗裔摂政形原千方公は大和の産にして欽明天皇御宇十一年己亥東夷鎮定の大将となり当地に下向あり、當村は海岸に面し諸国船舶輻港の要港たるを以てこの山に征旗を翻し屯田の策を設け部下の将卒をして荒地を開拓せしめ山麓に社頭を就築し埴安大神を勧請し遷宮の式を行はれ其の後千方公都に復帰し例年祭礼料として清所官より米二石を賜わり又皇極天皇元年壬寅十二月従四位下形原神社号を賜り村落を霊見宮内の庄と称す(類抄国史続日本後記にあり) 寛永十六年壬亥卯三月領主松平三十郎祭田高三石寄進あり、境内地 五反六畝十九歩山林 二町七反参畝弐拾六歩氏子戸数 約三千戸以上 神職、大化二年より天正七年 迄 藤原氏慶長十六年より市川氏現在に至る 神社号の変遷 形原神社 延喜式神祇 形原明神 三河国内神明帳 春日大明神 何時頃よりか不明 形原神社 明治四年五月御社、 大正十三年八月十七日県社 形原神社祢宜 市川利男 由緒書 |
形原神社 「延喜式神名帳」三河国宝飯郡六座ノ内形原神社 「参河(三河)国神名帳」縦四位下形原神社 「日本総国風土記」三河国宝飯郡形原郷形原神社圭田三十五東、皇極天皇壬寅12月(642)圭田を奉り神礼を加う。 社伝によると欽明天皇(630〜641)の時、東夷鎮定の大将藤原千方公がこの地に駐屯し、将校以下士卒をして荒地を開拓し山麓に埴安神を祀る。千方公、都に帰った後も例年祭料二石を奉献する。皇極天皇の時、形原神社の社号を賜り村落を雲見宮内の庄と称した。寛永16年(1639)に領主松平三郎、祭田三石を寄進。明治5年10月郷社に列し大正4年供進指定社となる。大将12年県社に昇格。昭和20年1月三河地震により社殿を被災。その後昭和60年までに戦争中供出の金銅物も併せて旧に復した。現在形原地区の総氏神として地元の信仰を集めている。 公式HP |
碑文 昭和20年1月13日未明突如として当地方を襲った大地震により犠牲者三百有余人全壊家屋三百有余にのぼる大惨害を被り 戦争末期の困窮と相まって筆舌に尽くし難い惨苦をなめたのである 今ここに三十三年を迎えるにあたり当時の惨状に思いを新たにし非命にたおれた人々の霊を慰めるとともに永く後世に伝えるべきしるしを残すということはまさに生き長らえることを得た者の果すべき重要な課題であると考え有志相計り形原地区氏多数の賛同を得てその芳志を結集しー碑を建立してこの意を表するものである 昭和52年1月13日 社頭石碑 |
形原神社 形原は加多乃波良と訓べし、和名鈔、(郷名部)形原、(仮字上の如し)○祭神埴安命、(風土記)〇形原村に在す、今春日と称す、(二葉松、私考略、)例祭、月日○物國風土記残欠云、形原神社、圭田二十五束、所祭埴安神也、皇極天皇元年壬寅12月、奉圭田加神禮、 当郡八幡村八幡宮を形原神社といふ説あれど然らず、こは國内神名帳の第一に挙たる、八幡三所大明神とある社也、もし迷はむ人もやわらんといひれく也、 神位 国内神名帳云、從四位下形原明神 神社覈録 |
形原神社 郷社 形原神社 祭神 埴安神 旧と春日大明神とも称す、創立年代詳ならす、但当社明細帳に当社古記録に曰へりとて、 「往古天児屋根命の苗裔、云々、千方公は大和國の産にして、舒明天皇御宇11年己亥東夷鎮定の大將となり此地に下向あり、当村は海岸に瀕し、諸國船舶幅湊の要港たるを以て、此山に征旗を翻し屯田の策を設け、将校以下士卒をして、荒地を開拓せしめ、山驚に社殿を新築し、埴安大神を勧請し、遷宮式を行はれ、共後千方公へ復帰し、例年祭祀糧として、清所官より米二石つつ賜り、又皇極天皇元年壬寅12月云々形原神社の号を賜云々」 と見えたり、御神体は神像に坐ます、延喜式内社にして、國内神名帳に「從四位下形原明神」と見えたり、黒印二石を有す、元和元年の寄連状に云く、 「三州宝飯郡形野原大明神江高弐石所奉寄進之者也、仍如件、 元和6庚申年閏12月7日松平庄右衡門宗書判 神主殿 松平氏は旧領主なるが、寛永16年3月更に領圭松平三十郎より祭田二石の寄進状ありたるが、後ち社領を失へるにや、本多光臣の天保2年の順拝記に「除地三石。と見えだり、形原一郷の惣社にして、明治5年郷社に列せらる。 社殿は本殿、秤殿を具へ、境内地1657坪(官有地第一種)あり、春日山東南の中腹にあり、老松亭々として天を簾し東南一面は渥美濱に望む、羽田野敬雄天保6年同10年に参拝せることありしが、其記官社考集説に見えたり、云く、 「予天保6年4月、此社にまいでつるに、今春日大明神と称して、鹿川近き山の半腹に鎮座て、御社も社家もいたく衰へてほとほと涙さしぐまるるまでなり、さて此御社、古くは山下の東南の方の平地に坐て、厳しき御社なりしを、松平紀伊守領主の時、今の山上に蓬し奉て、跡なりとて、神の荒地有て、木一本立り、又鳥居の有し跡とて、高さ二尺徐の石に。しめ縄引はへて有るのみなり、さて思ほえす、声打上て歌ひけらく、 いにしへの榮えもいまはかたの原かたはかりなる御社はなぞ 尚かくしも得あらで、此御社の古き故由延喜式に載られたる官社の御あひしらひの事など、額てふ物に書記て、此慨みの歌をも書加へて、大前に捧置つるを、同10年といふ9月に、又しも参詣つるに、神殿を厳く造改、又籠殿なども出来て、宮地のさまもいと美麗なりつるを悦て、 かたのはらかたばかりなる御社もふるきにかへる時は來にけり とうたひつ、又しも思ほへす声打上つゝ、かしこかれど籠殿の戸にぞかきつけける、あなかしこ、 明治神社誌料 |