岬の上に鎮座する。 渥美・知多牛島、さらに伊勢・志摩地方の山々も遠望できる。まさに絶景の地に鎮座する。 幡頭神社の祭神は尾張の国造の子建稲種命である。 建稲種命は日本武尊に従って蝦夷を平定した帰り、海上で暴風のため遭難した。遺体は、宮崎海岸に流れつき里人が埋葬した。この地に建てた宮が。幡頭神社との伝説がある。 日本武尊伝承とのかかわり、正法寺古墳、御贄貢進国としての三河国、そして当社の立地を考えると、当地方の古代氏族の奉齋する神社が当社で、その被葬地が古墳であり、この氏族はまた大和王権とも早くから深い関係を有しており、律令時代にもそれは御贄の貢進というかたちで持続していたと考えられよう。 幡頭神社本殿は、国指定重要文化財に、幡頭神社境内社神明社本殿、熊野社本殿はそれぞれ県指定文化財に指定されている。 |
由緒 幡頭神社 鎮座地・愛知県幡豆郡吉良町大字宮崎字宮前60番地 式内・幡頭神社 祭神・建稲種命,大物主命,誉田別尊 由緒 「景行天皇の御代日本武尊東夷御征討の際、大功をお立てになった建稲種命は帰途海上で御薨去、御遺骸この岬に着かれたのをお祭りしたのが本神社で、大宝2年文武天皇勅しで社殿を建て、官社に列せられたと伝へられ、延喜式に載り文徳実録に授従五位下とあり、明治4年郷社に大正10年県社に列せられて、古来から由緒高く人々の敬仰厚い神社である。 三間社流造り桧皮葺で、桃山時代の勝れた建築である。 大正10年重文に指定された。 両脇の神明社本殿、熊野社本殿も昭和32年県文化財とされる。 本殿と同時に造営される。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
幡頭神社 景行天皇の御代日本武尊東夷御征討の際大功をお立てになった建稲 種命は帰途海上で御薨去御遺骸この岬に着かれたのをお祭りしたのが本神社で大宝2年文武天皇勅して社殿を建て官社に列せられたと傳へられ延喜式に載り文徳実録に授従五位下とあり大日本史に正一位とあり明治4年郷社に大正10年県社に列せられて古来から由緒高く人々の敬仰厚い神社である 本殿 重要文化財 三間社流造り桧皮葺で桃山時代の勝れた建築である 社頭石碑 |
文化財 重要文化財 幡頭神社本殿 大正10年4月30日指定 三間社流造、桧皮葺 幡頭神社は大宝2年(702)の創建と伝えられる式内社で、旧幡豆郡では西尾市の久麻久神社とともに古い由緒をもつ神社である。 本殿は天正8年(1580)の建築で桃山時代の建築様式を伝える。屋根は桧皮葺で大きく反り返った曲線が美しい。丸柱や長押および虹梁などは太く力強い。虹梁は直線的で絵様が小さく、蟇股の内部の彫刻も素朴で全体に堅実な手法がとられた秀作である。 県指定文化財 神明社本殿・熊野社本殿 昭和32年1月12日指定 重要文化財の本殿と同時代に築かれたものとみられる。 神明社は本殿の東に位置し三間社見世棚造、熊野社は西に位置し一間社熊野造でいずれも桧皮葺である。幡頭神社本殿と両脇殿の三社が並ぶ姿は、形式を異にしつつも調和が取れており美しい。 吉艮町教育委員会 社頭掲示板 |
幡頭神社 社伝抜粋 幡頭神社 大宝2年(702)の創建と伝えられる式内社である。 祭神は東征の勅命を受けた日本武尊の旛頭の役を勤めた建稲種命で、東征の帰路駿河湾で遭難、蛭子岬に漂着した遺骸をこの地に葬ったという。以来この地を旛頭といい、幡豆と書くようになったとも言われる。 本殿は天正8年(1580)に再建されたもので、桃山時代の優れた建築として国の重要文化財に指定されている。また、当社には足利尊氏今川義元が参詣したとも伝えられている。 平成17年3月 西尾市教育委員会 社頭掲示板 |
幡頭神社 はずじんじや 愛知県幡豆郡吉良町大字宮崎。旧県社。祭神は建稲種命。大物主命。誉田別尊を祀る。日本武尊の東征に従軍した建稲種命は、帰途伊豆の沖で船が難破し、その遺体がこの地に漂着し、手厚く葬られたが、大宝2年(702)建稲種命と判り、改めて社殿を造営したのが創建である。『文徳実録』仁寿元年(851)に従五位下を授けた。『延喜式神名帳』に列した。例祭10月8日。本殿は天正8年(1580)の再建で重要文化財に指定されている。 神社辞典 |
羽豆神社 羽豆は假字也、郡名に同じ、○祭神詳ならず○幡豆庄営崎村に在す、今羽利明神と称す、(二葉松、私考略)例祭 月 日 類社 尾張國知多郡羽豆神社の條見合すべし 神位 文徳実録、仁寿元年10月乙巳、参河国播豆神授從五位下、国内神名帳云、正二位羽利大明神 神社覈録 |
郷社 幡豆神社 祭神 建稻種命 幡豆式に羽豆に作り國帳羽利に作る、創立年代詳ならずと雖も、延喜式内社にして文徳實録に「仁壽元年冬10月乙巳、参河国幡豆神授從五位下」と見え、國内神名帳に「正一位羽利大明神と見えたり、又参河国古蹟考に「今在羽豆宮崎杜今号羽利大明神」とあり、御神体は応神天皇の荒魂宝劒にして一名蛇切丸と奉称する神劒にまします、古来当国有数の神社にして、上下の崇敬厚く、其名隣国に及べり、往年中納言顯長当國國司たりし時本宮に参拝す、時に伴幡頭介助平を宮司に補せしかど、助平之を辞す、即ち顕長一首の和歌を贈らる、事東三伴氏瀧川家古系圏に見えたり、即ち 伴●男二男 員助 員助七代 助重 助平 伴幡頭介、幡頭郡司、中納言顯長三河国司也、幡頭羽利宮神拝之時、雖輔宮司依辞之、被送一首和歌 阿津佐弓加計而之物遠幡頭乃助如何耳志気留曾羽利之社遠 古来幡豆郷十七ヶ村竝宮崎村の産土神にして、明治5年9月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿を具へ、境内地1341坪(官有地第一種)あり、因みにハツとハリとの別に付き本多光臣云く、 「羽利大明神と称することは、先っ年京都蛸薬師圓福寺の住僧(宮崎村出生人)当社の額を書く時、ハツをハリと書き誤りけるよりの事なりと云り、されど国内神名帳にもしか称し、同郡萩原村にも同名の社あるべし、可考」股神祇志料は「羽豆神社、按文徳実録に幡豆、神名帳羽利に作る、並同」といひ、大日本地名辞書は萩原村にも同神を崇れば、利は豆の誤にあらす」といへり、宝物には藤原時平寄進の太刀、足利義満の太刀、獅子假面、足利尊氏(延文2年11月)及義満(応永7年3月)の扁額、及京都円満寺よりの篇額あり。 明治神社誌料 |