糟目犬頭神社
かすめけんとうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】糟目神社 三河国 碧海郡鎮座

   【現社名】糟目犬頭神社
   【住所】愛知県岡崎市宮地町馬場 31
       北緯34度55分37秒,東経137度8分51秒
   【祭神】彦火火出見尊 伊弉諾尊 伊弉册尊 素盞嗚命 犬頭靈神
        (合祀)豊受姫命

   【例祭】10月第2日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】大宝元年(701)9月15日彦火火出見尊を祀り鎭座
       仁寿元年(851)10月7日従五位下『文徳天皇実録』
       永延元年(987)6月15日熊野三所権現を合祀
       観応元年(1350)足利尊氏熊野権現領として永百貫文を寄進
       文和2年(1353)9月宇津宮左近將監泰藤犬頭霊神を合祀
       慶長8年岡崎城主本多豊後守康令社殿修造
       明治5年糟目犬頭神社と改称
       同9月18日郷社
       同40年10月26日神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は今の隣村上和田村の西糟目森崎
        矢作川洪水につき今の地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「熊野大権現」「犬頭権現」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神門・社務所

   【境内社】鍬神社

宮地の集落より少し西にはずれた所にあり
大宝元年九月創立という。


由緒

大宝元年9月創立彦火火出尊を鎮祭し糟目神社と称す。
永延元年6月15日紀州熊野三所大権現を合祭す。旧社は今の隣村上和田村の西糟目森崎に在り、往来矢作川洪水につき今の地に遷座、観応元年足利尊氏熊野権現領として百貫文目を寄付し、豊太閣の世まで相続すると云う。
犬頭霊神の由緒は相伝う上和田城主宇都宮泰藤なるもの貞和2年壬辰5月当社に於て鷹狩す。時に社殿の坤の方に七囲世の大杉樹あり、泰藤樹下に憩い仮寝す。樹に巨蛇あり、首を垂れ将に泰藤呑まんとす。率いる処の白犬頻に吠へ泰藤を警す。泰藤驚き覚む、然れども此事あるを知らず。亦眠り亦吠ゆ此如再三、泰藤怒り差添の刀を抜き犬頭を断つ、頭忽ち飛騰し蛇の噛み之を殺す。泰藤驚き且つ悔いその犬を以て犬頭霊神として当社に合祀す。実に当年9月15日なりと云う。
天正10年岡崎城主田中平部少輔吉政豊大閣の命を以て大杉樹を伐り同郡大浜村に於て船に造ると云う。慶長8年8月28日東照公より犬頭社領四十三石の朱印を賜うてより以後徳川氏代々準之、依て社号を犬頭大神明と称す。明治4年額田県の命を以て即ち今の糟目犬頭神社と改称す。明治5年9月18日郷社に確定。明治40年10月26日神饌幣帛料供進指定。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




岡崎観光文化百選

犬頭神社 701年に、今の上和田町にあたる糟目というところに建てられたので糟目神社と呼はれていました。
しかし、たびたび洪水にあったため現在地へ移されたと伝えられます。
境内には越前鯖江産の凝灰岩の狛犬、唐猫、鳥居などの石造文化財や、本多作左衛門重次の墓、新田義貞の首塚と伝えられる詞があります。また、神社にまつわる伝説もいくつか残っています。

社頭掲示板



糟目犬頭神社

犬頭神社
犬頭神社石鳥居
岡崎市指定文化財
昭和42年9月14日
越前鳥居最古の型式を示すものとして価値があり、慶長10年(1605)奉納である。
原石は福井県鯖江産の凝灰岩である。
犬頭神社コマ犬一対
岡崎市指定文化財
昭和42年9月14日
コマ犬は仏教守護の獅子として渡来形・名前も変わってきた。このコマ犬は越前から輸入したものである。
犬頭神社唐猫一対
岡崎市指定文化財
昭和42年9月14日
小型のコマ犬で奉納者は「奉猫」としている。猫の形で愛らしい。猫には毛髪というべきものはないが、これは頭から放射状にたてがみがある。獅子彫刻の伝統を残している。

社頭掲示板



大和田島弁財天社 由緒抜粋

この島は大塚と称し今より640年前南朝の忠臣宇都宮泰藤公が新田義貞の首を京都よりうばい埋めて、犬頭霊神を祀ったと伝えられ其の後星霜久しく 荒廃していたが篤志家と氏子崇敬者の請願に依り神殿を造営神橋鳥居を建築神池を整備 昭和49年6月滋賀県の竹生島より祭神を勧請して奉斎する

社頭掲示板



岡崎市指定文化財 糟目犬頭神社

建造物 犬頭神社石鳥居 一基
越前式鳥居の形式を示すものとして価値があり、慶長10年(1605)岡崎城主本多豊後守康令(康重)の奉納である。原石は越前(福井県)産の笏谷石と呼ばれる凝灰岩である。
彫刻 犬頭神社石造狛犬 一対
狛犬は仏教守護の獅子として渡来し、形、名前も変わってきた。この狛犬も越前石製で、慶長10年本多豊後守康令の寄進。
彫刻 犬頭神社石造唐猫 一対
小型の狛犬で、奉納者は「唐猫」としている。愛らしい猫の形で、猫には毛髪というべきものはないが、これは頭から放射状にたてがみがあり、獅子彫刻の伝統を残している。越前石製で、慶長10年市川猪兵衛正重の寄進。
昭和42年9月14日指定

社頭掲示板



糟目犬頭神社

鎮座地 岡崎市宮地町字馬場31番地
一、御祭神
彦火火出見尊 犬頭霊神 豊受姫命(食物・穀物を司る神)
伊弉諾尊 伊弉册尊 素戔嗚尊(上記那智三神を「熊野三所権現」)
一、御由緒
犬頭神社の創立年代は古く明らかではありませんが、社伝によれば雄略天皇の6年(462)諸国に桑を植え養蚕を奨励されたころ、養蚕の守護神を勧請したと伝えられています。兵範記(平信範の日記)には「犬頭糸を三河の国より毎年四百勾皇后官職へ納め内六百勾は三條女御の御領として碧海荘より貢」と記載され、また、今昔物語の犬頭物語にも天下一の糸と賞賛され天皇の服を調整したと伝承されています。三河国内神名帳(863)には「従四位上 犬頭明神」と記載され碧海郡内二二社の一社にあげられています。永延元年(987)に紀州熊野三所大権現を合祀して熊野権現と称しました。
糟目犬頭神社は大宝元年(702)に彦火火出見尊を祀ると社伝にありますが、正確な年代は推定できません。仁寿元年(851)の文徳実録には「三河国糟目神に従五位下を授く」とあり、三河国神明帳には「正四位下糟目明神」、延喜式神明帳(927)には「三河国二六座 碧海六座 糟目神社」と記載され、その当時の公認の主要な神社でありました。旧社は上和田の糟目森崎に鎮座していたが、矢作川の洪水により建久元年(1190)に犬頭神社に遷座合併しました。
当社は、古くより諸人の崇敬が厚く諸国俚人談には「銅銭百文を口に喰えて参拝すれば福徳を得る」と伝えられ、岡崎城主本多豊後守が奉納された鳥居・狛犬などが現存しています。観応元年(1350)には足利尊氏より永百貫文の社領を寄進され、慶長8年(1604)には家康公より朱印地四十三石を授かり、明治元年奉還するまで続きました。明治4年額田県令により糟目犬頭神社と改称、明治5年郷社に列せられました。

社頭掲示板



郷社 糟目犬頭神社

祭神
  彦火々出見尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊
  素戔鳴尊 犬頭霊神
社記に云く、大宝元年9月創立、彦火々出見尊を鎮祭し、糟目神社と称す、永延元年6月15日紀州熊野権現を合祭、当社は隣村上和田村の西糟目森崎にありしが、矢作川洪水の為め今の地に遷座すと、犬頭霊神は、古来相伝ふ、上和田城主宇都宮左近將監泰藤といふ者、文和2年5月、当社に於て鷹狩す、時に社殿の坤方に七囲余の大杉あり、泰藤樹下に憩ひて假寝す、樹上に巨蛇あり、首を低れて將に泰藤を呑まんとす、率いる所の白犬、頻りに吠て泰藤を警む、泰藤為に覚むと雖も、此の事あるを知らす、亦眠る、亦吠、此の如くする再三、泰藤怒りて犬を斬る、犬頭忽ちに飛騰して蛇の喉を噛みて之れを殺す、泰藤始めて其事を知り、且感じ且悔いて白犬を犬頭霊神と奉称して当社に合祀すと、實に同年9月15日なりしと、此の事和漢三才図会諸国里人談三河雀等に見えたるが、多く泰藤を宇津左衛門五良忠基とせり、又今昔物語にもこれに似たることあり、近世の學者多く之れを引く、社領は観応元年足利尊氏熊野権現領として永百貫文目を寄附したるが豊臣秀吉に及べりと云伝ふ、慶長8年に至り徳川家康社領四十三石を寄進せるが、爾来徳川氏代々崇敬壮たり、諸國社朱印写に云く、
「犬頭社領 三河国碧海郡上和田宮地村之内四十三石事、并社頭竹木諸役等免除、慶長8年8月28日、元和3年8月16日、寛永13年11月9日先判之旨、永不可有相違者也
寛文5年7月11日」、
徳川時代当社の号を改めて犬頭大明神と称せしが、明治4年4月旧領額田県の命に依りて今の糟目犬頭神社と奉称、同5年9月18日郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿、社務所等を具備し、境内地1507坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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