安城東部小学校南に鎮座する。 鎮座地は矢作川中流の右岸沖積平野と安城ヶ原台地の東端の接する台地上。 当社は旧く県神社と称されていたと云う。 |
日長神社 日長神社 安城市高木町鳥居13番地 祭神 天照大御神 (旧大霊貴尊) 由緒 創建は天長年中と言う、寛文7年未野竪物への満書上帳に日長神社境内十八間四方とあり。 明和六年大草太郎左街門へも又明治四年額田県への書状にも同様に記す。 天正12年尾張長久手の合戦に高木善次郎清秀、当社に武運を祈願し池田勝人を討つ。 慶安2年水野和泉守検地帳に字日長田日宝前・鳥居・御子田・御用米・油田等の名あり。 明治5年10月村社に列格し明治42年9月1日供進指定となる。 明治の初村民延喜式内の日長神社なりと具申したが教部省より式内未定社の通達を受けた。 昭和51年社務所改築 昭和53年拝殿再建 社頭掲示板 |
日長神社 祭神 天照大御神(旧大日霊貴尊) 創建は天長年中(824〜834)と伝う 当神社は往古より式内社として村民の崇敬殊に篤く天正12年(1584)小牧長久手の戦いに高木善次郎清秀当神社に武運長久を祈願し池田勝人を討ちたり 慶安2年(1649)水野和泉守の検地帳に当時の高木村小字名として鳥居、日宝前、日長田、神子田、御用米、油日、半崎等当神社にゆかり深き地名の存するは信仰の深きを偲ぶことができる 寛文7年(1667)永野監物への万書上帳に創建当時は境内十八間四方とあり 明和6年(1769)天草太郎左ヱ門及び明治4年(1871)額田県への書状にも同様に記す 明治の初め村民延喜式内の日長神社なりと具申したが教部省より式内未定社の通達を受ける 明治5年(1872)10月村社に列格し同42年(1909)9月1日供進指定社となる 社頭石碑 |
日長神社 日長は比奈賀と訓べし○祭神肥長比売歟〇在所分明ならず 私考略云、今尾張國知多郡森村に在す、又云、吉良庄中島村神明社乎、未詳、○古事記、(垂仁段)爾其御子一宿婚肥長比売、故密伺其美人者蛇也、即見畏遁逃、爾其肥長比売患、光海原自船追来故、益見畏以、自山多和引越御船、逃上行也、故天皇歓喜、即返菟上王、命造神宮、 神位 文徳実録、仁寿元年10月乙巳、参洞國日長神授從五位下、国内神名帳云、從四位下日長明神 神社覈録 |