西本郷町集落の南端に位置し、周辺は水田地帯である。 附近一帯は西本郷古墳群となつている。この古墳群最大のものは、宮内庁管理の陵墓地で前方後円墳の五十狡城入彦皇子御墓である。 祭神五十狭城入彦皇子はこの地を平定した。 もとは蝉神社といい、元禄17年(1704年)ごろよりは瀬部明神と称し、江戸後期末期ごろには本郷大明神と称したが、末社の中に「ワシ取ノ社」があつた。 |
由緒 五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大王主等を捕らえ、これより国内治まり庶民大いに安堵するという。 御墓は当町字和志山にあり前方後円墳で前後三十五間、面積七百七十六坪、周辺に六基の円墳即ち倍塚がある。明治29年11月28日御陵墓伝説地と指定。その後更に調査の結果、昭和16年4月18日御陵墓と御勅定、同年5月26日勅使御参行報告祭が行われた。 本神社は和名抄にゆえん鷲取郷の総社で延喜式国内115座の筆頭たる旧官社で文政13年神祇伯より正一位の神階を授けられ正一位本郷大明神の額を下賜された。古来上手の尊崇厚く累代の領主より毎年祭典費を献進があり祈年新嘗祭には幣帛を奉り宝作無窮、稔穀豊饒を祈る例であった。 明治7年5月25日教部省令により本神社を「延喜式内三河国26座之内和志取神社確定候事」との指令を受けた。 明治21年4月9日蓮華寺内で和志取神像が発見された。延喜年間の作と伝えられる木製の座像で本神社に鎮め祀ってある。 大正5年12月28日郷社に列せられた。 昭和21年1月10日由緒上県社と認められたが、戦後社格は級社と変わり7級社として現在に至っている。 拝殿、祝詞殿、神饌殿、透塀等氏子及び特別崇敬者の寄付浄財(350余万円)と延2600余人の勤労奉仕により、3か月の歳月を費やし、昭和30年竣工した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
五十狭城入彦皇子の前方後円填 所在地は愛知県岡崎市西本郷、田園風景が広がる此のあたりだが国道一号線矢作川から南西にわずか入ったところに、この前方後円墳がある。 五十狭城入彦皇子は景行皇と美濃の八坂入媛との間に生まれた皇子であり、第十三代成務天皇とは同腹の兄弟である。西本郷の交差点を北へ入ると、和志取神社が道路左側に在る、祭神は勿論五十狭城入彦皇子である。由緒書によると五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大王主等を捕らえ、これより国内治まり庶民大いに安堵したという。 御墓は当町和志山にあり前方後円墳で前後35間面積776坪、周辺に六基の円墳あり即ち陪塚がある。明治29年11月28日御陵墓伝説地と指定その後さらに調査の結果昭和16年4月18日御陵墓と御勅定同年5月26日御勅使参向奉告祭が行われた。とあり亦、和志取神社の境内には昭和天皇の御製が黒御影石に刻んであった「前記の猿投神社の所在地が鷲取であり五十狭城入彦を祀る神社が和志取神社と言う、同じワシトリと言う言葉に何か共通な意味合いがあるのだろうか」此の皇子は母親が美濃の八坂入媛であり、亦、その父は美濃地区の祖神と崇められ可児市久々利に御陵墓がある八坂入彦皇子であり、大碓命・小碓命(日本武尊)の弟に当たる。此の一連の流れから推測すると、五十狭城入彦皇子はこの土地になくてはならない人物で開拓の祖神として崇められた、それ故の此の地区では珍しい前方後円墳の築造となったと思われる。 http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/toukai.htm |
岡崎観光文化百選 和志取神社 五十狭城入彦を祭神とすることの神社では、祈年祭,春季祭、例祭、新嘗祭と年4回の大祭が行われ、浦安の舞が奉納されます。 特に秋の新嘗祭(勤労労感謝祭)では、豊年を祝う甘酒祭が、大正4年から今日まで続けられています。 社頭掲示板 |
和志取神社 由緒 本社祭神五十狭城入彦皇子は気入彦命とも甲す人皇十二代景行天皇の皇子にして勅を奉じて三河国に至り大任主等を討って最初に此の地方を治め給う後遂に此の地に薨去ましまして和志山の地に陵墓を定め給ひ神霊を祀りて和志取神社と称す。 其の子孫永く此の地方に栄えませしかば西三河地方の多くの人は命の御血縁につながるが故に本神社は当地方の大氏神なり。 尚、延喜式内の旧官社にして三河国内神名帳壱百拾五座の筆頭にのり歴代領主の崇敬殊に篤く祈年新嘗の特使を遣わし祭典の費用を助成し給ふ。 昭和16年4月18日和志山御陵墓治定になり勅使を遣わし給ふ。次いで昭和21年1月10日本神社は県社に列せらる。以上 岡崎市西本郷町御立 和志取神社 社頭掲示板 |
和志取神社 和志取は和之止利と訓べし、和名鈔、(郷名部)鷲取、(仮字上の如し)○祭神在所等詳ならず 私考略に、鷲塚村天神社乎、或云、本郷村、又賀茂郡御舘村に在す、未詳と云り、 神位 國内神名帳云、正五位下鷲取天神、 神社覈録 |