青木川北岸に鎮座する。
成務天皇の代に参河国造に任ぜられた知波夜命を奉斎する神社という。 西阿知和町の於新造古墳は祭神の墓と伝える。 西に隣接する、「謁播山松林寺」は、明治の神仏分離まで別当であった。 近世は衰退しわずかに社僧松林寺によつて維持されていたようである。 |
由緒 祭神、春日明神、知波夜命。 本社古文書に、出雲色大臣命5世之孫知波夜命当村に来り給ふをもって来山といふ。(中古春日山又は知波来山と称す) 今の牛下山の塚は本命を祀るものなりとつたふ。 往古神領2丁を領とす、また正応5年古文書に御高70石とあり中古戦乱のため神領は自然消散せり。 産子の家に伝ふる古文書に、当国謁播神社創建は白鳳年中(弘文天皇の御宇)帝当国引馬野に行幸の際、尾張国より当国に移り給ふ時、海上にわかに黒雲生じ怒涛渦巻き、帝大いに難み給ふ。 臣等種々労すとも力及ばず、此地を鳴海と称す。 就中紫雲空中に棚引き妙音を放つ、海上の黒雲忽ちに去り、帝の危難を救へり。 帝叡感の余り空中の妙音に対し勅問し給ふ。 空中より臣として帝難を外にせんやと、更に勅問に応じて当国の守護に鎮座する謁播明神なりと。 言下に一天洗ふが如く静穏なる海面と化し、恙く御還幸の後侍臣一人を遺し給ひ、此の神を守護させ給へり。 是れ安藤家の祖なり、藤原の末裔なるも神との同姓を恐れ、安藤に改めたり云々。 明治壬申5年郷社に列し、56ヶ村を氏子と定めらる。 明治45年2月日露戦役記念品を陸軍大臣より寄贈せらる。 明治45年11月幣帛供進宮に指定さる。 大正5年12月悠紀斎田記念品を愛知県より寄贈せらる。 昭和に入り氏子数80余戸、東西阿知和住民全部。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
謁播神社 阿知和町北山 祭神は知波夜命・春日明神・須佐男命であるが、三河の国造の長知波夜命を主神とする。 西阿知和町御用田の座原(すはら)、牛下(うげ)は命が住んでいた所で「なぎの入り古墳」(現在於新造古墳)は命のお墓であり身分の高い人に造られる前方後円墳で周囲120mの範囲内に7基の古墳がこれを取り巻くように並んでいた。 今から1500年くらい前に造られたといわれている(出土品は郷土館に陳列)。 神社の古記録には仁寿元年(851)従五位に列せられたこと、延長5年(927)延喜式内社に正三位の位に列せられたことがわかり、三河の国の中心として早くから社が建てられていたかを知ることができる。 岩津学区社会教育委員会 社頭掲示板 |
謁播神社 八等級 謁播神社 (延喜式内社 旧郷社) 鎮座地 岡崎市東阿知和町字北山39番地 御祭神 知波夜命 春日大神 御由緒 この神社の由緒は大変古く神社創建の年代は詳らかではない。 第55代文徳天皇(850〜58)の御代の文徳実録に、仁寿元年(851)謁播神社に位階従五位下を授くとあり、延喜5年(927)の延喜式神名帳にも、謁播神社の名が記されている延喜式内社である。 九世紀半ばに編纂された先代旧事本紀(旧事本紀)の第十巻国造本紀に、「物部氏の祖出雲色大臣命の五世の孫の知波夜命が、物部氏を率いて国造として当地を治めた。」とあり、命が逝去された後村人はその徳を慕い、命の鎮魂報恩のため祠を建て、氏神として尊崇したのが由来のようである。 神仏習合時代祭事は松林寺の社僧が行っていたが、明治維新以後神仏分離により現在に至っている。 明治5年(1872)郷社に列せられ、明治40年に神饌幣帛供進神社に指定された。 昭和21年旧社格制度は廃止され、替わって愛知県神社庁神社等級規定により十等級に認定された。 平成14年9月22日本殿覆殿並びに幣殿及び社務所増改築の御造営事業が竣功し、同日八等級に昇格された。 特殊神事 「雨乞神事」 この神事は、旱魃に時雨乞いをして、境内の池の水を農耕作業姿の氏子が汲み干す神事であり、霊験あらたかで忽ち雨が降ったと言い伝えられている。 この祭りは「大旱の祭」と呼ばれて、明治維新後も四回行われた。 社頭石碑 |
郷社式内謁播神社由緒 一、祭神 知波夜命 春日明神 一、延喜式神名帳ニ 三河国額田二座 並小内 謁播神社 一、国内神名帳ニ 正三位 謁磐明神 一、旧事記国造本紀ニ 三河国造志賀高穴穂朝以物部連祖出雲色大臣命五世孫知波夜命定賜国造 一、本社古文章ニ 出雲色大臣命五世孫知波夜命当邑ニ来リ給フヲ以テ来山ト云フ(中古春日山又ハ知波来山ト称ス)今ノ牛下山ノ塚ハ本命ヲ祀ルモノナリト云フ 往古神領弐町ヲ領スト又正応五年古文章ニ御高七十石トアリ中古戦乱ノ為神領ハ自然消散セリ 一、産子ノ家ニ伝フル古文章ニ 当国謁播神社創建ハ白鳳年中(弘文天皇ノ御宇)帝当国引馬野ニ行幸ノ際尾張国ヨリ当国ニ移リ給フ時海上俄ニ黒雲生シ怒涛渦巻キ帝大イニ艱ミ給フ臣等種々労スレドモ力及バス此地ヲ鳴海ト称ス就中紫雲空中ニ靉キ妙音ヲ放ツ海上ノ黒雲忽チニ去リ帝ノ危難ヲ救ヘリ帝叡感ノ余リ空中ノ妙音ニ対シテ勅問シ給フ空中ヨリ臣トシテ帝難ヲ外ニセンヤト更ニ勅問ニ応シテ当国ノ守護ニ鎮座スル謁磐明神ナリト言下ニ一天洗フガ如ク静穏ナル海面ト化シ恙ク御還幸ノ後侍臣一人ヲ遣ハシ給ヒ此ノ神ヲ守護サセ給ヘリ是レ安藤家ノ祖ナリ藤原ノ末裔ナルモ神トノ同姓ヲ惧レ安藤ニ改メタリ云々 一、昭和に入り氏子総戸数八十余戸 東西阿知和住民全部 一、明治壬申5年郷社に列し56ケ村を氏子と定めらる 一、明治40年11月幣帛供進の宮に指定せらる 一、明治41年3月日露戦役記念品を陸軍大臣より寄贈せらる 一、大正5年12月悠紀斎田記念品を愛知県より寄贈せらる 社頭掲示板 |
謁播神社 謁播は阿知波と訓べし○祭神詳ならず○乙見庄阿知和村に在す、今春日と称す、(私考略)例祭 月 日 神位 文徳実録、仁寿元年10月乙巳、参河国謁磐神授從五位下、國内神名帳云、正三位謁磐大明神 神社覈録 |
郷社 謁播神社 祭神 知波夜命 大和春日大神 旧と春日神社とも称す、創立年月詳ならずと雖も、旧記の伝ふる所に拠れば出雲色大距命五世孫知波夜命是地に来りて薨せられしを以て、今の手下り山の塚(元と御来山と称す)に葬り、其の神霊を当社に祭りしと、文徳實録に「仁寿元年冬10月乙巳、授参河國謁磐神從五位下」と見え、延喜の制、小社に列せられて本郡二社の一に坐ます、國内神名帳に「正三位謁磐大明神」と見えさせ給ふは当社にして、往古は神領二町を有し、正応5年11月の文書に御高七十石と記ししが、更に四十余石となり、途には之れを失ふに当り、神主散逸し僅に一向宗正蓮寺の僧徒之れを守るに止まりしと、明治5年郷社に列せられたり。 社殿は本殿、拝殿を具へ、境内地1656坪(官府地第一種)あり、因みに古蹟考の記す所に拠れば、阿知和付近にマンドケインと云ふ山ありて、古跡の崩壊せる石橋の跡あり、勾玉土器等を得ることありと見えたり、 明治神社誌料 |