朱鳥14年(699)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、当地に社を建てたのがはじめといわれる。 愛知県の観光情報サイト「LET’S GO! あいち」によりると、 『孝徳天皇時代の大化3年(646)に関東方面と京都を結ぶ道に駅制が敷かれたが、この辺りに「山綱」という馬の駅ができて、その後地元の人々が祖霊神を祀った「稲前神社」を建立した。これが山中八幡宮の元になったと考えられている。「稲前神社」は現在、山中八幡宮の「奥の宮」となっている。 そして、この近くにかつて存在した山中城の城主・山中光重が文明4年(1433)に稲前神社に源氏の八幡大神を合祀して「八幡社」と社名を変えた。』 |
由緒 家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し難を避けたという鳩ケ窟があります。 一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。 「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます。 例年正月3日には、五穀豊穣を祈る御田植神事「デンデンガッサリ」が催されます。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
山中八幡神社 山中八幡神宮記によりますと山中八幡宮の前身は稲前神社(通称“奥の宮”)と言って文武天皇3年9月9日(西暦699年)に初めて「供物の礼を行う。」と記してあります。 そこからこの山中八幡宮が始まったと言えるものと思います。その後名称は何度か変わり、現在の山中八幡宮となりました。 デンデンガッサリ保存会 会長 山本 勝己 |
鳩ヶ窟碑 永禄六年癸亥本願寺一揆ノ時家康公急ヲ此ノ窟中ニ避ク賊之ヲ穿ラントス白鳩二羽窟中ヨリ飛出デタリ衆疑ト共ニ囲ヲ解キテ去レリ前ニハ旧領還元ノ基ヲ顕シ今ハ開運ノ徴ヲ示シ給フ応験ヲ畏ミ益々尊崇厚キヲ加ヘタリ故ニ山ヲ御身隠山ト称ヘ窟ヲ呼ンデ鳩ヶ窟トイフ社号ヲ舞上八幡宮トモ称スルハ此ノ所以ナリ 中略 慶長八年家康公征夷大将軍ニ任セラレ府ヲ江戸ニ開ク同年八月廿六日朱印状ヲ附シ神領百五十石ヲ献進セリ爾来明治維新ニ至ル迄代々ノ将軍治世ノ始メニ当リ等シク朱印状ヲ附シ神領先判ノ例ニ任スル旨沙汰スルヲ例トセリ 社頭石碑 |
岡崎市指定文化財 山中八幡宮 無形民俗文化財 デンデンガッサリ デンデンガッサリは山中八幡宮に古くから伝わるお田植え神事で毎年旧暦の正月三日に行われていましたが、昭和初期頃から新暦の1月3日に行われています。歌詞の初めに「デンデンガッサリヤー」という詞があるので「デンデンガッサリ」といわれています。前歌・後歌・せりふ・所作により年間の農作業を表現し、天候の恵みと稲の豊作を祈願します。苗に見なした餅を大鏡餅に植える所作、豊作を表す大鏡餅を牛の背に載せ、牛が重さに耐え切れず倒れる所作が特徴的です。牛が「運搬」「豊作」の象徴として登場してくることが極めて珍しく貴重なものです。 昭和47年7月5日指定 天然記念物 山中八幡宮のクスノキ 一本 山中八幡宮のクスノキは主幹が地上四mのところで二つに分かれて伸びる樹形をしています。樹高も二十mを超える県下でも最大級の規模を誇ります。 昭和60年3月6日指定 工芸品 乱舞面 一面 社伝で乱舞面とよんでいますが、おそらく能面の悪見を神楽面として利用したものと考えられます。口をへしめて、怒っているような表情、穴を開けた瞳の周囲を金属板とした所など、その特徴をよく示しています。木造で中央に縦の亀裂が入っていますが、そのつくりからは室町時代の作とされています。 昭和51年3月31日指定 社頭掲示板 |