灰宝神社
はいほうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】灰宝神社 三河国 賀茂郡鎮座

   【現社名】灰宝神社
   【住所】愛知県豊田市越戸町松葉52
       北緯35度6分30秒,東経137度11分5秒
   【祭神】波迩安比咲命
       『神社覈録』祭神不詳

       土師部との関係により祖神の波邇夜須比売を祀つたとされている。

   【例祭】10月第2日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】慶雲3年(706)5月鎮座とする
       明治元年挙母藩で式内と定める
       昭和6年10月26日郷社

   【関係氏族】土師部
   【鎮座地】元は矢作川西岸の中洲とする
        河川の汎濫により現在地に遷座

   【祭祀対象】祖神
   【祭祀】江戸時代は「八王子権現」「灰宝天神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       御幣殿・拝殿・手水舎・社務所・倉庫・物置

   【境内社】神明社・秋葉社・越戸神社

矢作川北。線路の南、国道153号と越戸の集落に面して鎮座している。
考古資料等により古代この地域が須恵器の生産と輸送に大きな役目を担つていたと推定されており、土師部の祖神たる神を祀ったと思われる。
鎮座伝承地を矢作川西岸の中洲としており、河川の汎濫により現在地に遷座したと伝えている。
近世は別当職の宝隆院が当社を支配していたというが明治初年に廃。


灰宝神社

灰宝神社は全越戸の守護神でその創建は約1300年前の慶雲3年といわれる歴史ある神社です。
今から1000年余り前善政の模範といわれた醍醐天皇の時代(901−922)の延喜5年(905)に天皇の勅命で藤原時平他2名によって「延喜式」という全50巻にもおよぶ法律書が作成されました。その本の中に国として祭る神社を登録し全国で2861社が式内社として定められました。
豊田市内では8社ある内の一社が地元の灰宝神社です。
灰宝神社の祭神は波邇夜須毘売神です。
伊弉諾尊・伊弉冉尊が大八島つまり日本の国土を生んだ後風雨草木山野五穀火の神等々の神を生み、国土経営の基礎が進んだ後に産まれた神様です。またの名を埴安姫尊ともいわれ波邇夜須は埴粘のことであり粘土であり大地でもある粘土をこね形を造り焼いて土器を作った陶芸の神様です。
その昔良質の粘土を求めて越戸港より陶工達がどんどん上陸し越人となりこの地方の開拓にあたった事との関連は興味深いものがあります。
このように歴史と由緒のある神社が私達の地域にあることは誇りでもあり伝統ある神社の大祭を大切にしていきたいと切望するものです。
氏子総代

社頭掲示板



宝物庫

昭和7年前田栄次郎によって当神社では珍しい鉄筋コンクリートで灰宝神社の宝物庫が造られた。
昭和18年、太平洋戦争末期となり、本土決戦に備えて国宝級の宝物類の分散疎開が閣議決定された。
このとき、西加茂郡出身で愛知県文化財担当の主事であった小栗鉄次郎が灰宝神社の宝物庫に着目、愛知県は灰宝神社の宝物庫に熱田神宮の国宝や美術品、名古屋城の障壁画など4,788点を搬入した。
その後名古屋市内は空襲にあい、名古屋城も焼失したが、国宝類は灰宝神社の宝物庫のおかげで守られた。

名古屋市博物館企画展 「小栗鉄次郎 戦火から国宝を守った男」より抄録



灰宝神社

荒井町の兵主神社から国道153号線を北に向かって1200mの左側に灰寶神社と彫られた大きな石柱が建っている。
灰の宝の神社、そして祭神は伊邪那美命の屎から生まれた埴安姫尊である。この神は粘土を使い形を整え火で焼いて祭器を作る神であり陶磁器の祖神ともいえる方である。
越戸のこの地に陶磁器の祖神がまつられていることは極めて示唆的である。古代・中世において猿投山一帯は全国的にも著名な窯業生産地であったが、 その製品の搬路は明確ではない。江戸時代、猿投山西麓の八草村からの米の搬出方法は陸路この越戸まで運び、越戸からは矢作川を利用して水路で、 矢作川河口に運んだことが文書に見えている。江戸時代と平安時代を簡単に結び付けるわけにはいかないが、平安時代の焼物もこのルートによったかもしれない。 その場合、埴安姫尊をまつる灰宝神社がこの地に鎮座することの意味もすこしながら判るような気もする。

豊田の史跡と文化財



灰宝神社

灰宝は波比保と訓べし〇祭神詳ならず○在所分明ならず、(私考略云、高橋庄越戸村八王子乎、)
神位
國内神名帳云、正五位下灰寳天神、(一本作灰寳)

神社覈録



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